生鮮食品
オンタリオ州リンジーの肌寒いある春の日、デーナ・ボーマン(56歳)はコーヒーを飲む1時間半の間に、少なくとも10回は生鮮食品に感謝していた。政府から支給される障害者手当だけで暮らしていたボーマンは、何年もの間、冷凍野菜ばかり食べていたのだ。ほかにも、フード・バンクに行ったり、販売期限ぎりぎりか期限切れの割引商品を買ったりして節約していた。
だが2017年12月以来、ボーマンは安心して新鮮な果物や野菜を買えるようになった。イースターに4人の孫全員を招待し、一緒に七面鳥を食べるなど「おばあちゃんとしてふるまえる」ほどの余裕ができたという。今では交通費も払えるようになったため、近くの町の社会福祉講座の受講を検討している。幸福を感じることで、体の調子も良くなったとボーマンはいう。ボーマンと同じアパートや町周辺に住み、ベーシック・インカムを受け取る他の多くの人も同様だ。「人の笑顔に気がついたり、好意的に感じるようになり、私も挨拶をするようになりました」(ボーマン)。
リンジーの表通りでリサイクルショップ「バイ&セル・ショップ(A Buy & Sell Shop)」を経営するジム・ガーバットは、町の雰囲気が明るくなったと見ている。中古家具、キッチン用品、記念品などの販売商品ほとんどの売上が好調だ。バイ&セル・ショップは、客がただ話しをするだけに立ち寄るような場所だという。「アルコールを出さないチアーズ(Cheers=カジュアル・レストラン)のようなものです」と、ガーバットはいう。将来に希望を持った人が増え、「みなさん、元気になってきています」。
いったい何が変わったのか。トロントの北東部に位置し、湖に囲まれたこじんまりとした町リンジーでは、オンタリオ州を対象にした世界最大規模のベーシック・インカム(最低所得保障制度)の実験が行なわれている。州政府による3年間の実験では、約4000人に毎月給付金を支給する。少なくとも貧困線(生活に必要な物を購入できる最低限の収入)の75%までを補うために、単身者には最低年間1万7000カナダドル(約1万3000米ドル)、夫婦には2万4000カナダドル(約18000米ドル)が支給される。オンタリオ州におけるこの実験対象者の約半数がリンジー地区の町民で、その数はリンジーの人口の約10%を占める。
この実験にかかる費用は、年間約5000万カナダドル(約3800万米ドル)だ。これをカナダ全土に広げると、年間430億カナダドル(約326億米ドル)かかるだろう。だが、この実験を計画した保守派のヒュー・シーガル元上院議員は、政府にとって長期的にはコスト削減になると考える。シーガル元上院議員はベーシック・インカムの導入により社会保障制度が簡素化され、勤労意欲をそぐような規制を排除し、犯罪防止や医療費削減など貧困に起因するコストが削減できると考えている。実際に、1970年代に行なわれたマニドバ州でのベーシック・インカムの実験では、そうした成果が見られた。
カナダから遠く離れた場所からも、熱い視線が送られている。ベーシック・インカムは、急速に進む自動化が抱える雇用問題への対処法として、シリコンバレーが大いに注目しているのだ。フェイスブックのクリス・ヒューズ共同創業者や、スタートアップ・インキュベーターのYコンビネーターのサム・アルトマン社長など、テック業界へ資金を投じる投資家たちは、無条件でお金を手にした時の人々の反応を調査する試験プロジェクトを支援している。ヒューズ共同創業者の経済保障プロジェクトは、カリフォルニア州ストックトンで100名を対象に、月500ドルを18カ月支給する。Yコンビネーターは2017年、カリフォルニア州オークランドで小規な模実験を実施した。実験地域は未定だが、2019年初頭から、1000名を対象に月1000ドルを3〜5年間支給する計画もある。
AIやロボット工学の影響が大きくなるにつれ、こういった動きはどんどん出てくるだろう。ハワイ州の議員らは、ベーシック・インカムの可能性を勉強し始めている。この試みを先導する民主党のクリス・リー議員は、サービス業が主流のハワイ州経済にとって、自動運転車や小売店での自動チェックアウトの導入が、多くの人的労働が終焉する始まりになるかもしれないと懸念する。観光やホスピタリティ産業の仕事を機械に取られてしまったら、「雇用創出のための代替産業はありません」とリー議員はいう。
だが、ベーシック・インカムのビジョンとオンタリオ州の実験との間には重大な相違がある。カナダでは、ベーシック・インカムを効率的な反貧困メカニズムとして実験している。比較的小さな地域で柔軟な対応をとることで、仕事を見つけさせたり、他のセーフティネットを強化したりするのだ。これはシリコンバレーが想定するような、多くの人に対応するユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)とは異なる。最も明らかに異なる点はその費用だ。多くの経済学者は、ずっと以前にコストがかかりすぎると結論づけていた。特に、新しい仕事を作り出して職業訓練をするプログラムのコストと比較すると顕著だ。そのため、1960年代と1970年代の実験後、この構想は実行に移されることはなかっ …