アリーナは、父親の夏の別荘であの車に罠を仕掛けていた。
時間が来るとノキア製のゴム長靴を履き、リュックを背負って外へ出た。溶けかけの雪、薄黒い松の葉、灰色の湖。ラップランドの朝は、モノクロだった。すがすがしい空気を吸って、一息つく。子どもの頃から、このかび臭い別荘で眠れたためしがない。
もう二度と来るつもりはなかった。だがここは、罠を仕掛けるには完璧な場所だった。ネットワークが不安定で、車のAIはオフラインでの動作になるだろう。目撃者もいなければ、センサー・データを競売に掛けトークンを得ようとするIoTデバイスもない。数年前に父が冗談で「お前は記録されている」という黄色いステッカーを窓に貼り付けていたが、本当に彼らしいと思う。上っ面だけで中身がない。
アリーナは、特急オート(自動車)チェーンIDを使って例の車を予約していた。拡張現実(AR)メガネの中で、車のアイコンが曲がりくねった森の道をゆっくり進んでくるのが見える。あと2、3分で湖が見え、右に急カーブするはずだ。道路標識がそのカーブを知らせていたが、前の日にアリーナが白いペンキで読めないように細工をしていた。人間にはほとんど見えないが、画像認識ネットワークは樹木として認識するだろう。
長靴の下でガラスのように薄い氷が割れていく。お腹に感じる重圧が、どんどん冷たくなっていく。
ふと、アリーナは娘のシニに電話したい衝動に駆られた。ただ声を聞きたかった。まだ時間はあった。タパニがちょうど幼稚園に送っていく頃だろう。あの車の捜索を始めた2週間前から、ずっと会っていない。
アリーナはウールのミトンを外し、携帯を取り出した。画面をスワイプするとき、薬指が指輪状に白くなっていることに気づく。ウェドブロック(wedblock)リングがないことがすべての疑問を消し去った。
アリーナは携帯電話をリュックに戻した。何が何でもあの車を湖に沈めるのだ。
アリーナはスキーマスクで顔を覆い、走り出した。急カーブの近くの湖を見下ろす大きな松の木の後ろに着いた頃には、体が温まっていた。リュックの中の妨害電波発生装置を操作するアプリを立ち上げ、ちゃんと電源が入っていることを確かめた。
車のヘッドライトの光が、木々の濃い影の中で揺らめいた。間もなく、流線型の低い車が目の前に滑り込んできた。
時間の流れが遅くなり、湿った松の木の豊かな匂いがした。アリーナは、試験管内で作られた野菜だけを食べる厳格な菜食主義者だが、大昔の火であぶった肉が思い出されて食欲をそそった。狩人が獲物に近づくときも同じように感じるに違いない。
車は急カーブで減速した。アリーナは、車が周囲を認識する仕組みを知っていた。ライダー(LIDAR:レーザーによる画像検出・測距)が雲に向かって照射されると、IoTのセンサー・オラクル(中央監視システム)がIDを送り、アルゴリズムが今から数秒、数分、数日のうちにすべてのものがどこにあるかを予想して各地点をつなぎ合わせるのだ。過去、現在、そして未来が一目でわかる。アリーナが仕掛けた単純な道路標識の細工など、子どもだましに思えた。あの車はそんなことに騙されないだろう。もし、この策略が失敗したら…。先のことなど、まったく考えていなかった。
車はカーブを曲がり損ねた。バリバリと氷を割り、深い轍を刻みながら、まっすぐに湖へ突っ込んでいった。アリーナは妨害電波発生装置アプリを驚きの目で見た。リュックの中のあの装置が、周囲のネットワークを切断したのだ。
アリーナは車に向かって走った。車は高級感のあるメルセデスの2020年代モデルで、見事な車体は光沢のある銀色をしていた。車の前方は黒い水に浸かり、後輪が岸辺の泥の中で空回りしていた。雪も氷も砂利も空中に跳ね上がり、エンジンが傷ついた動物のように甲高く鳴いている。
アリーナはぎょっとした。車がゆっくりと後退し始めたのだ。
リュックを投げ出し走り寄ると、車の後部に背中を押しつけ、強く押した。何かが破れ、左の太ももに痛みが走った。
一瞬、アリーナは車に雪の中へ押し戻されたが、長靴が足がかりを見つけた。車は驚くほど軽かった。決して衝突しないのが前提だから、強度を高める必要はない。悲鳴を上げる足を無視して、アリーナは車を湖に押した。
車が真っ黒な湖に完全に浸かると、エンジンが停止した。だが、ヘッドライトは点灯したまま、車は水中で上下にぷかぷかと浮いている。車の屋根に設置された小さなライダーが回転を続けていた。
まだ完全に停止したわけではない。
アリーナはがっくりと膝をついた。黒い点が目の中で泳いでいる。まるで車の四次元ビジョンを見ているかのように、目の前に過去の映像が広がった。あの車の捜索、アリーナがその車を初めて見た日のこと。
その日はタパニがゲーム会社へ、初めて出勤する日だった。しかし、シニがぐずって遅れそうになっていた。
「な・が・ぐ・つ・な・ん・て・は・か・な・い!」
シニは足を踏みならした。アリーナはため息をついた。街で1日を過ごすためのおもちゃ、着替えの服、そしてベビーカーを用意するのに、いつもより早く起きなければならなかった。タパニはその間ずっと寝ていた。今はうつろな表情をひげ面に浮かべ、AR映像をぼうっと眺めながら玄関に立っている。太いフレームのめがねをかけ、黒いスーツと厚めのコートを着たタパニは、ふくろうのように見えた。シニのムーミンのリュックが、タパニの腕からだらしなくぶらさがっている。
「シニ、これからママが3つ数えるわよ。イーチ……」アリーナは思っていたより厳しい口調になった。
「いや!」、シニが叫んだ。一筋の鼻水が渦を巻いて垂れてきた。
「ニィ」、アリーナが言った。頭痛がする。助けて欲しいのに、タパニは一体どうしたのだろう?
アリーナはウェドブロック・リングを親指でこすった。小さなLEDライトはいつもの落ち着いた緑色だった。タパニがひざまずいてプロポーズをしたとき、アリーナは笑ってしまった。でも本当は、ずっとそうして欲しかったことにアリーナは気づいていた。
ウェドブロックとは、貞節と親権を規定するスマート・コントラクトだ。2人の収入から、契約違反を監視するAI裁判官やIoTのセンサー・オラクルにトークンが支払われる。こんな朝は、挙式寸前にした口約束ではなく、数学的に証明できるコミットメントが真の意味で必要だ。
アリーナは指を鳴らした。
「シニ、長靴を履きなさい。今すぐ」。
タパニは責任を感じた顔つきで、飛び上がった。
「お宅のお嬢さんは、気候変動の影響を無視することを主張しているわね」、アリーナは言った。
「確かに。すまない」と言って、タパニはシニの隣に腰を下ろした。「ママがサンって言ったら何が起きるか知ってるかい?」
シニは首を振った。
「君は靴下で外へ出なくちゃならない。そうしたら水たまりおばけが捕まえに来るよ。ほうら、こんな風に!」
タパニはシニの足をくすぐった。シニはくすくす笑った。アリーナはチャンスを逃さなかった。アリーナは片方を、タパニがもう片方の長靴を素早くシニに履かせた。
「ほらね」とタパニは言って、アリーナにウィンクをした。「ぼくらのチームワークは健在だ」。
「少なくとも長靴の場合はね」と、アリーナは言った。タパニに救いの手を差し伸べるつもりはなかった。「車はもう呼んであるの?」
「向かってるよ」と、タパニは言った。「ごめん。準備が必要だったんだ。車の中で終わらせるよ」。
「わかってるわ」。アリーナはシニの頭越しにタパニにキスをした。思っていたより長かったかもしれない。久しぶりだった。舌が触れたとき、電流が走ったように感じた。アリーナの好きなアフターシェーブ・ローションの匂いがして、さわやかな歯磨き粉の味がした。アリーナは出かけるしたくをしたタパニを好きだと思った。
2人は学生の時にビット政府の会合で出会った。アリーナは、スマート・コントラクト網を活用して特別行政サービスの効率を上げるアイディアがとても気に入っていた。タパニたち芸術系学生は、反欧州連合で人民主義的なフィンランド政府に代わりの電子国家を建国することで、ただ反発したいだけだった。だが、EUが解散すると、事実上ビット政府を核とした革命が勃発。突然にフィンランドやスウェーデン、ノルウェーといった国家が消滅し、ただの北部地域と電子市民だけが残ったのだった。ヘルシンキ元老院広場でのデモの後、アリーナの狭い学生寮で2人は激しく交わった。なんとなく、その後週末を一緒に過ごすようになり、同棲が始まり、そしてシニが産まれた。
「いいのよ」、アリーナは言った。「私はあなたが芸術に取り組んでいることが嬉しいの。ただのデータ提供者になるよりはましだもの」。
タパニは顔をしかめた。アリーナは押し黙った。仕事が軌道に乗る前は、タパニは2〜3枚のトークンと引き換えに、蚊のように血を吸う針をいつも前腕に着け、バイオマーカー(体内で代謝された物質)のデータを売っていた。アリーナはタパニのVRマンガをサポートしたいと思っていた。だがAIは、アリーナのスマート・コントラクト監査業務に高値をつけ始めた。そうなると、シニをどうする …