ネイサン・トレフは24歳の時に1型糖尿病と診断された。1型糖尿病は家族で遺伝する病気だが、原因は複雑だ。複数の遺伝子が関係している。環境も影響を及ぼす。
このため、誰がこの病気にかかるかは予測できない。トレフの祖父はこの病気にかかり、片足を失くした。しかし、トレフの3人の子供は少なくとも現在までは問題ない。今後子供たちが発症しないようにとトレフは祈っている。
体外受精の専門家であるトレフは現在、病気の発症率を抑えるための革新的な方法を研究している。トレフが勤務するスタートアップ企業、ゲノミック・プレディクション(Genomic Prediction)は、コンピューター・モデルとDNA検査を組み合わせることで、実験室のペトリ皿のどの胚(分裂開始後の体外受精卵)が1型糖尿病などの複雑な病気にもっともかかりやすいかを予測できると考えている。このような統計的な「スコアカード(得点表)」があれば、医師と両親が一緒になって不適格な胚を避けることができる。
体外受精クリニックはすでに胚のDNA検査を実施して、単一遺伝子中の欠陥が原因で発生する嚢胞性線維症などの希少疾患を見いだすのに使っている。このような「着床前診断」の検査は劇的に進歩しつつある。胚のゲノムをより詳しく検査して、生まれてくる人間がどうなるかについて広範囲にわたる統計的予測ができるようになったからだ。
大規模な集団調査で集められた大量の遺伝子データのおかげで大きな進歩が起こっている、と科学者たちはいう。予測モデル(予測のための統計モデル)に何十万人分ものDNA情報と健康情報が蓄積されていくにつれて、病気のリスクの予兆となる遺伝子パターンをより正確に見いだせるようになってきた。ただし、予測モデルには論議の余地がある。というのは、同じ手法を使って、体外受精胚が成人になったときの身長や体重、肌の色、さらには知能まで予測できるからだ。
ゲノミック・プレディクションには最高科学責任者(CSO)であるトレフのほかに、物理学者でありミシガン州立大学の研究担当副部長のスティーブン・スー教授、デンマーク人の生物情報学者であり最高経営責任者(CEO)を務めるローレント・テリアーが、創業者として名を連ねる。スー教授とテリアーCEOは、数学の天才たちのゲノムの遺伝子配列を解析することで、IQの遺伝的根拠に光を当てようという中国でのプロジェクトに深く関わっている。
外れ値を見つける
ゲノミック・プレディクションの計画が実現するかどうかは、遺伝子のわずかな違いが集まってどのように一人の人間が出来上がるかを示す新しい知見が数多く得られるかどうかにかかっている。ただし、糖尿病の発症率が高いかどうか、神経症的な性格かどうか、身長が高いか低いかなどはそうでもない。すでにこのような「多遺伝子リスク・スコア」が消費者直販型の遺伝子検査に使われており、たとえばトゥエンティスリーアンドミー(23andMe)の報告書には肥満になる遺伝的可能性の項目がある。
大人であれば、リスク・スコアは単に目新しいだけで、無視しても構わないような健康アドバイスと大差ない。だが、もし同じ情報が胚について得られたら、生存に関わる結果が生まれる。つまり、どの胚を育てて誕生させるか、どの胚を実験室の冷凍庫に保存したままにするかが決まってしまうのだ。
受賞歴のある診断技術専門家で、90以上の科学論文の著者であるトレフは次のように語る。「仕事仲間には『知っているかい? もし僕の両親がこのテストを受けていたら、僕は生まれていなかったんだよ』と常々言っています」。
ゲノミック・プレディクションは、シリコンバレーのベンチャー投資家たちから資金を集めて、2017年に設立された。投資家たちが誰なのかは明かしていない。SF映画「ガタカ(Gattaca)」に着想を得たテリアーCEOによれば、ゲノミック・プレディクションは体外受精医や両親に「外れ値」を特定するレポートを提供する予定だという。「外れ値」とは、遺伝子スコアから見て統計曲線の悪い方の端にあり、糖尿病、高齢時の骨粗しょう症、統合失調症、小人症などの疾患の可能性が高い胚のことである。もちろん、これらの疾患に対するモデルが正確であればの話だ。
ゲノミック・プレディクションが着床前遺伝子拡張検査(ePGT:expanded preimplantation genetic testing)と呼ぶ構想では、すでに利用可能な希少疾患リスクの検査メニューに、今後検査を予定している一般的な範囲の疾患のリスクも事実上、加えるつもりだ。同社の宣伝用の資料では、アイデアを伝えるために、ほとんどの部分が水中に沈んでいて見えない氷山の絵を使っている。テリアーCEOは、妊娠時のダウン症候群検査が標準になったように、「ePGTも体外受精の標準的なプロセスの一部になると考えています」と言う。
MITテクノロジーレビューが意見を求めた専門家の中には、多遺伝子スコアの技術を体外受精クリニックに紹介するのは、極端に早すぎるほどではないものの、時期尚早であると考える人たちもいる。カリフォルニア州に本社を置く出生前検査の会社、ナテラ(Natera)のマシュー・ラビノビッツCEOは、予測モデルの能力ははまだ十分ではなく、現在得られる予測は「大部分は紛らわしいものである」可能性があるという。ただしラビノビッツCEOは、予測技術がやがて実用化することには同意する。
「遺伝学におけるモデリングの研究が止まることはなく、人々がそのモデルを利用するのを止めることもできません。モデルはどんどん改善されていくでしょう」。
鋭い質問
高齢になって発病する疾病も含めて、疾病リスクがないかどうかを調べるために胚を検査することについて、米国の不妊治療医たちは倫理的に容認できると考えている。しかし、新しいDNAスコア・モデルを使うと、IQや成人時の体重などの形質に基づいて、両親が子供を選べるようになるかもしれない。1型糖尿病と同様にこれらの形質も、予測モデルのアルゴリズムが発見対象とする複雑な遺伝的影響の結果であるからだ。
「ラクダがテントの中に鼻だけを入れているのと同じです(訳注:旅人がラクダの鼻をテントに入れるのを許したら、最終的にはラクダ全体をテントに入れる羽目になったという喩え話がある)。もっと深刻な目的に使っていくと、別のものを見つけるのも容易であることは明らかです」と言うのは、生殖遺伝学の問題を分析するガイジンガー・ヘルス・システム(Geisinger …