韓国のソウルで、史上最強の棋士の1人であるイ・セドルと、グーグルが作成した人工知能「AlphaGo」の囲碁の対局が開かれた。その非常に緊迫した対局の最中、AlphaGoは奇妙な手を打った。困惑の一手だったが、このおかげでイ・セドルに対する優位が決定的となった。
黒37手目でAlphaGoは「あり得ない」場所に石を置くことを選んだ。初めはそのように見えた。間違いなくAlphaGoがかなりの地を放棄したように思われた。盤上の空間を支配することが肝要な囲碁で、初心者が失敗してしまうように。2人のテレビコメンテーターは、手を読み間違えたのか、あるいは機械が何らかの理由で不具合を起こしたのかと疑った。しかし実際は、従来の常識に反し、37手目のおかげでAlphaGoは盤面中央を恐ろしく強固にできた。AlphaGoは、人間が考えよいような手で対局に効率よく勝利していたのだ。
アートについて
AlphaGoの勝利は非常に印象深い。なぜなら、古い歴史を持つ囲碁というゲームは直感的な思考力を試すものだと見なされがちだからだ。ルールはとても単純で、2人のプレイヤーが盤上の縦横の線の交差部分に黒か白の石を交互に置いていき、対局相手の石を囲んで取り除くことを目指す。しかし、上達するのは信じられないほど難しい。
チェスプレイヤーは数手先を読めるが、囲碁では対局が複雑になるまで展開しなければできない。また、序盤で決まった手は存在しない。さらには優勢かどうかを分かりやすく評価する方法も存在せず、熟練者でも自分が打った特定の手の理由の正確な説明が難しいことがある。このため、熟練者レベルのコンピューターが従う規則は単純なものにはなり得ない。
AlphaGoは囲碁の遊び方を全く教えられていない。その代わり、AlphaGoは数十万の対局を解析して、自身との対局を数百万回こなした。AlphaGoは数あるAI手法の中から、人気の「深層学習」を使っていた。この手法には、脳が新しい情報を理解する際の、相互結合したニューロン層が脳内で発火する様子を(かなり大まかにではあるが)参考にした数学的演算が関わっている。AlphaGoは数時間の練習を通じて自身に教え込み、戦略における直感力を少しずつ磨いた。そして世界最強の囲碁棋士の1人を倒せるまでになった。人工知能の、本当の意味での歴史的な出来事だ。
37手目から数時間後、AlphaGoは対局に勝利し、5番勝負で2対0となった。その後、イ・セドルは大勢の記者とカメラマンの前に立ち、人々を落胆させたことを丁寧に謝罪した。「全く言葉もありません」とイ・セドルは撮影のフラッシュの嵐に瞬きしながら述べた。
AlphaGoの驚くべき成功は、「AIの冬」とよく表現される挫折やつまずきの数十年間を乗り越え、ここ数年で人工知能がどれほど進んだかを示している。深層学習からわかるのは、わずか数年前は人間固有の知能が必要と考えられていた複雑な作業を、機械が自身に少しずつ教えられることだ。自動運転車は既に実現の可能性が見えている。近い将来、深層学習に基づくシステムが病気の診断や治療法の推奨に役立つだろう。
しかし、これほどの進歩にもかかわらず、ある重要な分野は依然として苦戦中だ。その分野とは言語だ。SiriやIBMのWatsonは、単純な音声や文章の命令に従ったり、基本的な質問に答えられたりはするが、会話はできず、自身が用いる単語の意味を本当には理解していない。AIで本当に変革を起こすのであれば、この部分を変えなければならない。
AlphaGoは話せないが、より優れた言語理解につながる可能性のあるテクノロジーが含まれている。グーグル、フェイスブック、アマゾンなどの企業や、AIの主要な大学研究所では、手に負えないように見えるその問題を研究者たちがついに解決しようとしている。用いられるのは、AlphaGoの成功と現在のAIの復権に関わっているのと同じAIツールの中の一部(深層学習を含む)だ。その成功如何によって、今「人工知能革命」となりつつあるものの規模や性質が決まる。私たちが機械と容易に意思疎通できるようになる(機械が私たちの日常生活に密接に関わる)のか、あるいはたとえ自動化が進んだとしてもAIシステムは謎のブラックボックスのままなのかの判断の参考になるだろう。「心に言語を持たないAIシステムが人間らしくなることはありません」とマサチューセッツ工科大学(MIT)のジョシュ・テネンバウム教授(認知科学・認知計算学)はいう。「言語は、最も分かりやすく人間の知能を他と区別するものの1つです」
AlphaGoが囲碁に勝利したのと同じ手法によってコンピューターがついに言語をマスターできるかもしれないし、あるいは他にも何かが必要になるかもしれない。しかし言語理解がなければ、AIの影響力は異なってくる。当然ながら、人類はAlphaGoのような非常に高性能かつ高知能のソフトウェアを依然として利用できる。しかし、人類とAIの関係性は、はるかに非協力的になることも考えられるし、はるかに非友好的になるかもしれない。「黎明期から続く問いに、『効率的だという意味で知能が高いが、他者の気持ちを理解しないという意味で人類と異なるものが現れたら一体どうなるだろうか』というわけです」とスタンフォード大学のテリー・ウィノグラード名誉教授はいう。「人間の知能に基づかずこのビッグデータなるものに基づいて世界を動かす機械を想像してみてください」
機械に言葉をささやく人々
AlphaGoの大勝利から数カ月後、私は最近の人工知能ブームの中心地であるシリコンバレーに向かった。AIの実用化における傑出した進歩をもたらし、より優れた言語理解能力を機械に与えようとしている研究者の元を訪れるのが目的だ。
私はまずウィノグラード名誉教授の元を訪れた。ウィノグラード名誉教授はスタンフォード大学パロアルト・キャンパスの南端に位置する郊外に在住で、グーグル、フェイスブック、アップルの本社からそれほど遠くない。ウィノグラード名誉教授は白髪の巻き毛と豊かな口ひげを携え、尊敬すべき学者にふさわしい風貌であり、熱意が伝わってくる人物だ。
1968年、ウィノグラード名誉教授は先駆者の1人として、機械に知能的な会話をするよう教えることを試みた。数学の神童だったウィノグラード名誉教授は言語に魅了され、MITに新しくできた人工知能研究所に入りPhD(博士号)取得を目指して研究し、日常言語を用い文章入力を通じて人々と会話するプログラムを構築することを決意した。当時、それは突飛な野望とは考えられていなかった。AI分野は驚くべき進歩の真っ最中で、MITの他の研究者たちも複雑なコンピュータービジョンシステムや未来的なロボットアームを作っていた。「未知の、無限の可能性を感じました」とウィノグラード名誉教授は回想する。
しかし、言語をそれほど容易にマスターさせられると、誰もが確信していたわけではなかった。大きな影響力を持つ言語学者で、MITのノーム・チョムスキー教授らが、人間の言語の仕組みの解明があまりにも不十分であることを考慮すると、AIの研究者たちは機械に言語を理解させるのに四苦八苦するように思われる、と批判した。ウィノグラード名誉教授はあるパーティーに出席した時、チョムスキー教授の学生が通り過ぎる際に、ウィノグラード名誉教授が人工知能研究所で仕事をしていることをその学生が口にしたことを覚えている。
しかし、楽観できる理由もあった。ドイツ生まれのMITのジョセフ・ワイゼンバウム教授が、その数年前に史上初の人工無脳プログラムを構築していた。「ELIZA」と呼ばれたそれは、漫画の心理療法士のように振る舞うようプログラムされ、メッセージの重要な部分を繰り返したり質問をしたりすることで会話の継続を促すものだった。たとえば自分の母親に対して怒っているとELIZAに話したとすると、ELIZAは「あなたの母親について考える時、他にどんなことを思い浮かべますか?」という。安っぽい仕掛けだが、驚くほどよい成果を挙げた。ワイゼンバウム教授がショックを受けたのは、一部の被験者が自分の最も後ろめたい秘密をELIZAに告白し始めた時だ。
ウィノグラード名誉教授は、本当に言語を理解しているように見える機械を作ろうとし、問題の範囲を絞ることから始め、いくつかの仮想の物体を仮想のテーブル上に置いた「積み木の世界」という単純な仮想環境を作った。それからウィノグラード名誉教授は「SHRDLU」というプログラムを作った。SHRDLUは、余計な要素のない仮想世界を言い表すのに必要な全ての名詞や動詞、単純な文法規則を解析できた。SHRDLU(写植機の2列目のキーからなる無意味な …