ダートマス・ヒッチコック病院(米国ニューハンプシャー州)の患者が自宅で体重計に乗ると、マイクロソフトのコンピューターに体重が記録される。患者が自分で計測した血圧値も、看護婦と患者の通話内容まで記録され、患者の心理状態が測定される。マイクロソフトの人工知能はさまざまなデータを解析し、将来の健康問題を本人が自覚症状に気付かないうちに、患者と医療スタッフに警告する。
ダートマス・ヒッチコック病院にあるのは、医療とマイクロソフトのビジネスの未来の両方だ。試用中の「認知」サービスは、マイクロソフトのクラウド・コンピューティング・サービス「Azure」に最近追加された。マイクロソフトによれば、一般企業は、機械学習テクノロジーをレンタルすることで新たな収益源を模索し、自社データと顧客情報を結びつけて人工知能テクノロジーで処理し、広告を最適化したり、顧客の使用方法を分析したり、顧客とのコミュニケーションを改善したりできる。以前なら、グーグル、アマゾン、マイクロソフト、フェイスブック、アップルのような巨大テック企業にしか許されなかったことだ。
「顧客は、データ・ストレージの容量貸しや大量のコンピューターの時間貸しのような古典的なクラウドサービスから、機械学習と人工知能(AI)テクノロジーを統合したサービスへと熟成していく過程にあるのです」と語るのは、マイクロソフトのクラウド機械学習サービスの責任者ヘレイン・オベロイ・プロダクト管理ディレクターだ。
「私が商談したすべての大企業は、機械学習とAIを役立てるために、極めて地位の高い人を任命し、方法を検討させています」
マイクロソフトの競合であるグーグル、IBM、アマゾンも、同様の未来に賭けている。グーグルが6月に発表した新開発の半導体製品は、機械学習ソフトを高速化し、グーグルのクラウドサービスの競争力を高めることになる。実は、グーグルはクラウド市場でアマゾンとマイクロソフトに後れを取っており、グーグルのサンダー・ピチャイCEOは、機械学習サービスでグーグルは、他社と差別化できるサービスを提供する、といった。アマゾンのクラウド事業子会社であるアマゾン・ウェブ・サービシズは、初のクラウド型機械学習サービスを昨年立ち上げた。6月にはアマゾン・ウェブ・サービシズのアンディ・ジャシーCEOが、今後数カ月の間にサービスを大幅拡大すると誓った。
アマゾンと競合大手各社が、最近数年で機械学習テクノロジーへの投資を増大させたのは、ソフトウェアのブレークスルーにより、写真や会話をコンピューターが理解する処理(「2013年の10のブレークスルー・テクノロジー:深層学習」参照)の精度を大量の訓練データで高められるようになったからだ。
アマゾンの音声操作型ホームアシスタント「Alexa」は、このブレークスルーを活かした最初の消費者向け製品だ。また、画像の内容を理解してタグ付けができるグーグルの写真サービス「Googleフォト」には、すでに2億人以上のユーザーがいる。一般企業は、データ・ストレージや解析処理をクラウドサービスに外部委託しているが、こうしたサービスに機械学習を追加すれば、AIがデータの中身を解釈し、人間には不可能な付加価値を生みだすことで、極めて大きな売上が見込める市場になる、とIT企業は期待している。調査会社のIDCは、2015年にクラウド・プロバイダーが一般企業から得た売上高を約700億ドルと推定しており、2010年代の終わりには2倍に膨れあがるという。
グーグルのクラウド型機械学習サービスの責任者ロブ・クラフト・プロダクト・マネージャーによれば、ほとんどの一般会社には、組織管理、事業、顧客について大量のデータを持っており、今すぐにでも機械学習の恩恵を受けられる。
「グーグルの目標は、そのデータからもっと直接的な価値を引き出せるようにお手伝いすることです」
グーグルなどが提供する新たなサービスで最も分かりやすいのは、画像の内容を説明したり、電話の通話のような音声をテキストにしたり、テキストから重要語句を抽出したり、翻訳したりするサービスだ。マイクロソフトとIBMは、機械学習のテクノロジーでは、グーグルに後れを取っていると見られているが、ビジネスでは、すでに極めて幅広い種類のサービスをAPIで提供している。
たとえばマイクロソフトには、顔の表情を読み取るAPIがある。IBMには、ソーシャルメディア投稿など、テキストの著者の性格を判断するAPIがある。マーケティング会社のインフルエンシャルは、APIを使って、コロナビールやレッドブルなどが、販促活動のために、最も効果の大きなソーシャルメディア・ユーザーがブランドに帰属意識を感じるように仕向けている。APIは、組み合わせても使える。企業が、ソーシャルメディアに投稿された画像から自社のロゴを探し出して自社のユーザーを見つけたり、写真内の人の表情を検出して、自社の製品の利用シーンを分析してマーケティングに活かしたり、投稿されたテキストから重要語句を抽出したりするシステムを構築したり運用したりできるのだ。
グーグルなどが非常に高い価値があると期待する機械学習システムは、多くの場合、無償でも利用できる(「技術系最大手企業が無償配布する(AI)テクノロジーの熱狂にフェイスブックが参加」参照)。だが、大手法律事務所に法律検索を高速化するソフトウェアを提供しているスタートアップ企業ROSSインテリジェンスの創業メンバーであるジモー・オブビアゲレCTOは、一流の機械学習システムを構築して運用する時間と費用を考えれば、多くの一般会社はテクノロジーをレンタルする方を選ぶだろう、という。
「巨人の肩に乗る方が理にかなっています」
法的な質問を理解するROSSのサービスも、すべてが自社製ではない。検索用の言語処理テクノロジーは、2011年に米国のクイズ番組「ジェパディ!」のチャンピオン2人を打ち負かしたIBMの人工知能型コンピューター「ワトソン」から発展したテクノロジーが使われている。
PwCのクリス・カラン主任テクノロジストは、ほとんどの大企業は、機械学習サービスに進んで多額の投資をすることはない、と見ている。カラン主任テクノロジストの推定では、大企業の約4分の3が「様子見」状態で、人工知能で何ができるのか、見守っている段階だ。
マイクロソフトなどの新サービスを使えば、ダートマス・ヒッチコック病院のような非テクノロジー系組織でも、プログラム済みの機械学習システムを利用できることは明らかだ。だが、人工知能が真価を発揮するのは、組織に固有の要件にカスタマイズされたときだ、とカラン主任テクノロジストはいう。たとえばグーグルとマイクロソフトの画像APIは、写真に猫や高層ビルが写っているかといった、汎用型的な判定用に仕上がっている。しかし、たとえば食品メーカーには、人工知能により、生産ラインで特定の製品不良を発見できる視覚システムのほうが、より多くの価値があるはずだ。ところが、クラウド・プロバイダーが提供中あるいは提供予定のサービスはどれも、顧客自身のデータで、顧客自身の問題を、顧客自身がアルゴリズムを訓練して、問題を解決する精度を高めるように設計されている。顧客のビジネスに特化した人工知能を開発することはそれほど難しくないはずなのに、提供はされない。
「能力と経験豊富な技術者が足りないのです」