死者のプライバシーは守られるべきか? 検死が投げかける倫理的課題
検死によって本人も知らなかった深刻な病が死後に明らかになった場合、誰にどう伝えられるべきなのだろうか。米国の有名俳優夫妻の死因報道をきっかけに、死者のプライバシー問題について考えてみた。 by Jessica Hamzelou2025.03.25
- この記事の3つのポイント
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- ハックマン夫妻の死因が公開され健康状態の詳細も明らかになった
- 検死で死因以外の情報も明らかになることがあり倫理的問題がある
- 事前指示書で死後の健康情報の共有方法を指定できるようにすべきだ
ここ数週間、俳優のジーン・ハックマンとその妻でピアニストのベッツィ・アラカワの死に関するニュースを追ってきた。ハックマンが亡くなる数日前に妻のアラカワが珍しい感染症で亡くなり、アルツハイマー病が進行していたハックマンは何が起こったか理解するのに苦労したかもしれないという話を聞いて、胸が張り裂けそうになった。
しかし、検死官が夫妻の健康状態について詳しく説明するのを見ながら、私は少し居心地の悪さを感じずにはいられなかった。報道によると、夫妻はプライバシーを大切にし、何十年もの間、公の場に出ることはなかったという。しかし、私は大西洋の反対側で、アラカワの薬箱にどんな薬が入っていたかということや、ハックマンが数回の手術を受けていたことを知らされている。
私は疑問に思った。検死報告書は非公開にすべきではなかろうか? 人の死因は公開情報である。しかし、死後の検査で明らかになる可能性のある、その他の個人的な健康上の詳細についてはどうだろうか?
検死に関する手続きや規制は国によって異なるため、ここではハックマンとアラカワが亡くなった米国に焦点を当てる。米国では、「法医」解剖は司法当局が設定し、裁判所がその過程を管理する。一方、病理解剖は遺族の要請によって実施される。
また、検死にはさまざまなレベルがあり、特定の臓器や組織を調べる場合もあれば、より徹底的な検査では、すべての臓器を調べ、研究室で組織を調べる場合もある。
検死の目的は、人の死因を解明することだ。検死報告書、特に詳細な調査から得られた報告書では、生前には秘密にされていたかもしれない健康状態も明らかになることが多い。個人の健康情報を保護するために制定された連邦法や州法は複数ある。たとえば、HIPAA法(医療保険の相互運用性と説明責任に関する法律)は、人の死後50年まで「個人を特定できる健康情報」を保護する。しかし、人が亡くなると状況が変わる。
まず、死因が死亡診断書に記載される。これは公開情報である。死因を公開することは現在では当然とみなされていると、フロリダ大学医学部の生命倫理学者、ローレン・ソルバーグ准教授は語る。死因は公衆衛生統計情報のひとつだ。このテーマを研究してきたソルバーグ准教授と、彼女が指導する学生ブルック・オルティスは、検死結果の他の側面をより懸念している。
それは、検死によって死因以上のことが明らかになることがある点だ。また、いわゆる「偶発的所見」が見つかることもある。検死官は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に感染した後に死亡した人が別の病気も患っていたことを発見するかもしれない。その疾患の診断はまだ受けていなかったかもしれない。無症状だったのかもしれない。そのような情報は死亡診断書には記載されない。では、誰がその情報を知るべきなのか?
人の検死報告書を誰が見られるようにすべきかを決める法律は州によって異なり、さらには州内の郡によっても異なる。オルティスによると、病理解剖の結果は必ず遺族に知らされるが、遺族の誰が知らされるのかは現地の法律で定められているという。
遺伝子鑑定は事態をさらに複雑にする。検死官が死因を確認するために遺伝子鑑定をすることもある。遺伝子鑑定で死因が明らかになるかもしれない。しかし、死因とは無関係の、他の病気のリスクを高める可能性のある遺伝因子が見つかるかもしれない。
そのような場合、故人の家族がその情報を知ることで恩恵を受ける可能性がある。「私の健康情報は私の健康情報ですが、遺伝的健康情報に関しては別です」とソルバーグ准教授は語る。遺伝子は親族が共有しているものだ。親族は自分の健康に対する潜在的なリスクについて知る機会を持つべきなのだろうか?
ここが本当に複雑なところだ。倫理的には、私たちは故人の意向を尊重すべきである。故人はこの情報を親族に知らせることを望んでいたのか?
また、遺伝的リスク因子は多くの場合、単にリスク因子にすぎないことも念頭に置くべきだ。その人が病気を発症するかどうか、症状がどの程度重くなるかを知る方法がない場合が多い。また、遺伝的に発症リスクがある病に治療法がなかったり、治らないものであった場合、故人の親族に伝えても、ただ大きなストレスを与えるだけではなかろうか?
27歳の女性は、23アンドミー(23andMe)の遺伝子検査で「75歳までに遅発性アルツハイマー病を発症する確率は28%、85歳までに発症する確率は60%」と告げられたときに、そのような経験をした。
「この情報に突然打ちのめされました」。この女性は認知症フォーラムに投稿している。「この情報を決して忘れることはできないという、どうしようもない恐怖感と悲しみを感じずにはいられません」。
ソルバーグ准教授とオルティスは調査の中で、自動車事故死者の検死の結果、ほかの無症状の疾患が明らかになった事例に遭遇した。自動車事故で亡くなった40代のある男性は、遺伝性の腎臓病を患っていたことが判明した。23歳の男性は、腎臓がんを患っていたことが判明した。
理想的には、医療チームと家族の両方が、解剖であれ、遺伝子鑑定であれ、健康上のプライバシーであれ、故人が何を望んでいたかを事前に知っておくべきである。事前指示書によって、終末期医療に対する希望を明確にすることができる。しかし、米国で事前指示書を作成済みの人は約3分の1にすぎない。そして、彼らは死後の医療行為ではなく、死ぬ前の医療行為に焦点を当てる傾向がある。
ソルバーグ准教授とオルティスは、事前指示書を拡大すべきだと考える。事前指示書で、死後の健康情報の共有方法を指定することができるだろう。「死について話すのは難しいことです」とソルバーグ准教授は語る。「医師にとっても、患者にとっても、家族にとっても、気まずいことかもしれません」しかし、それは重要なことである。
3月17日、ニューメキシコ州の判事は、警察の写真とボディカメラの映像、およびハックマンとアラカワの医療記録の非公開化を求めるハックマンの遺産管理代理人の要請を認めた。デッドライン(Deadline)によると、医療調査官は「ハックマン夫妻の検死報告書や死亡調査報告書の開示を一時的に禁じられている」という。
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- ジェシカ・ヘンゼロー [Jessica Hamzelou]米国版 生物医学担当上級記者
- 生物医学と生物工学を担当する上級記者。MITテクノロジーレビュー入社以前は、ニューサイエンティスト(New Scientist)誌で健康・医療科学担当記者を務めた。