この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。
毎年、私は編集部のメンバーとともに、MITテクノロジーレビューが選ぶ「ブレークスルー・テクノロジー10(世界を変える10大技術)」のリストを作成している。生命工学のイノベーションに関して今年の勝者は明らかだった。臨床試験において、投与を受けた女性と少女の100%がHIV感染を予防できたことが判明した薬「レナカパビル(Lenacapavir)」だ。
医学において「100%」という言葉を耳にすることはまずない。レナカパビルのこの臨床試験は、HIV予防薬としてはこれまでで最も成功したものになった。しかも、レナカパビルは安全だった(すでにHIV感染症の治療薬として承認されている)。さらに、年に2回注射するだけで、完全な予防効果が得られるのだ。
3月11日、米国サンフランシスコで開催された「レトロウイルス・日和見感染症会議(CROI)」で、レナカパビルを年1回注射する小規模な第1相臨床試験の結果が発表された。第1相臨床試験とは、「ヒトを対象に実施される最初の」試験で、健康なボランティアを対象として、薬の安全性をテストするためのものだ。それでも、この結果は非常に有望なものだった。注射後1年経っても、すべてのボランティアの血漿中にレナカパビルが残っており、その濃度はこれまでの研究でHIV感染を予防できると示されている水準を満たしていた。
私は通常、第1相臨床試験の結果に胸を踊らせることはあまりない。通常はほんの一握りのボランティアが参加するだけで、薬が効くかどうかについてはあまり分からないからだ。しかし、この試験は違うようだ。レナカパビルのこの臨床試験で、HIVのエピデミック(局地的な流行)の終息に大きく近づく可能性がある。
まず、これまでの経緯を簡単におさらいしよう。2012年以来、HIVに有効な曝露前予防(PrEP:Pre-Exposure Prophylactic)薬は存在するが、そのような薬は毎日服用するか、あるいはウイルスに曝露する直前に服用する必要がある。2021年に米国食品医薬局(FDA:Food and Drug Administration)はHIV予防を目的とした最初の長時間作用型注射薬を承認した。その薬「カボテグラビル(Cabotegravir)」は2カ月ごとに注射する必要がある。
研究者はさらに長期間の予防効果を持つ薬の開発に取り組んできた。健康な時もそうだが、病気の時でさえも錠剤を毎日忘れずに服用するのは簡単なことではない。それに、こうした薬には偏見がつきまとう。「バスに乗っているときに、バッグの中で薬がカタカタと揺れる音を他人に聞かれたり、薬棚やベッドサイド・テーブルに置いてある薬を他人に見られたりすることを心配する人がいます」。ギリアド・サイエンシズ(Gilead Sciences)でHIV予防・ウイルス学、小児科、HIV臨床開発を担当するモウパリ・ダス部長は語る。
その後、レナカパビルの研究が始まった。レナカパビルはすでにHIV感染症の治療薬の一種として承認されているが、昨年2つの試験で予防効果が検証された。1つ目の試験では、ウガンダと南アフリカの女性と思春期の少女5000人以上が、年2回のレナカパビル注射か、1日1錠のPrEP薬の投与のいずれかを受けた。この試験は大成功を収め、レナカパビルを投与されたボランティアにHIV感染者は1人もいなかった。
2つ目の試験では、3265人の男性と多様な性別の人々(トランスジェンダー男性、トランスジェンダー女性、ノンバイナリーを含む)を対象にレナカパビルがテストされた。年2回の注射で、このグループのHIV発症率は96%減少した。
医学誌『ランセット(The Lancet)』にも掲載された最新の研究では、ギリアド・サイエンシズのダス部長らは米国で40人の健康なボランティアを対象に、レナカパビルの新しい処方をテストした。参加者が投与されたのはレナカパビルに変わりないが、処方が若干異なり、用量をより多くして投与された。また、以前の試験では皮下注射だったが、この試験では臀筋への注射だった。この試験では、ボランティアの半数が他の参加者よりも高用量を投与された。
レナカパビルは安全で、効果も期待できるようだ。参加者にはHIV感染のリスクはなかった。低用量を投与された人々でさえ、血漿中のレナカパビルの濃度は高いままだった。
注射から1年後、血漿中のレナカパビルの濃度は昨年の治験でHIVを防ぐことができた人々のレベルよりもまだ高かった。CROIで研究結果を発表したギリアド・サイエンシズ臨床薬理学担当のレヌ・シン上席部長によると、この結果から、新しい年1回の注射が年2回の注射と同等の予防効果を持つと考えられるという。
「(この結果を聞いて)とても興奮しました」。感染症を研究し、HIV感染者の治療に従事しているカリフォルニア大学サンフランシスコ校医学大学院のカリーナ・マルケス准教授は述べている。
マルケス准教授によると、年1回の予防注射は、患者にとっても医療機関にとっても、より簡単で、より安価になる可能性がある。「うまくいけば、これまでの常識を一変させるでしょう。第1相臨床試験のデータを見る限り、有望に思えます」とマルケス准教授は言う。
レナカパビルはウイルスの複製能力を阻害することで効果を発揮する。しかし、非常に珍しい特性も持っているようだとシン上席部長は指摘する。レナカパビルは毎日でも毎年でも投与できる。少量でも、血液中に数時間どころか、数日間も留まることができる。また、多量に投与すると、いわゆる「持効性注射剤(デポ剤)」となり、時間の経過とともに徐々に成分が放出される。
「私は以前米国食品医薬品局(FDA)に勤務していました。そこで、多種多様な分子や製品を見てきましたが、このようなものは見たことがありません」とシン上席取締役は付け加えた。同社のチームは、レナカパビルに「魔法」、「ユニコーン」、「無限のレン」などのニックネームをつけている。
第1相臨床試験が無事に完了すると、研究者は通常、薬の有効性をテストするための第2相臨床試験へと進む。昨年の試験が前例のない成功を収めたことを考えると、レナカパビルにはその必要はない。ギリアド・サイエンシズの研究チームは現在、第3相臨床試験を計画している。この試験では、HIV感染リスクのある大勢の人々を対象に、毎年1回の注射をテストする予定だ。
この処方でのレナカパビルはまだ承認されていないが、ギリアド・サイエンシズの研究チームは年2回投与のレナカパビルの承認をFDAと欧州医薬品庁(EMA:European Medicines Agency)に申請しており、6月にはFDAから承認を得られると期待しているとダス部長は語る。この処方でのレナカパビルは、欧州医薬品庁と世界保健機関(WHO)が協力して、欧州連合域外で医薬品の承認を迅速化する「EU-M4all(EU-Medicines for all)」制度の下でも評価されている。
低中所得国に影響を及ぼす感染症の新薬には、常にコストに関する懸念がつきまとう。HIV感染症の治療に使われる既存の処方でレナカパビルを使うと、1年分で約4万ドルかかる。「年2回投与の価格はまだ分かりません」とダス部長は語る。
ギリアド・サイエンシズはジェネリック医薬品メーカー6社とライセンス契約を結び、120の低中所得国でジェネリック薬をより安価で提供する予定だ。12月、世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバルファンド)と他の団体は、120の低中所得国に住む200万人が年2回のレナカパビル注射を受けられるようにする計画を発表した。
しかし、これは米大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)と連携した取り組みであり、トランプ政権が出した対外援助一時停止の大統領令を受けて、その存在そのものが脅かされている。
「私たちは現在、政治情勢を見極め、何ができるのかを検討しているところです」とシン上席部長は明らかにした。「私たちは政府と協力して、今後の展開と、どのような対応ができるのかを見極めることに全力を尽くしています」。
米国の対外援助の一時停止は、世界中の人々の健康に壊滅的な影響を及ぼすだろう。そして、すでに4000万人以上の命を奪っているHIVの流行に終止符を打てる可能性がある薬の入手が妨害されるかもしれないという見通しには、心が傷む。2023年にはHIV関連の原因で63万人が死亡したと推定されている。同年、さらに130万人がHIVに感染した。
「私たちはHIV感染症のエピデミックの終焉に向けて、非常に良い状況にあります」とマルケス准教授は語る。「私たちは長い道のりを経てここまで来ました。あとはゴールまでの残りわずかな道のりを前進して、必要としている人々に製品を届けなければなりません」。
MITテクノロジーレビューの関連記事
年2回投与のレナカパビルが、2025年の「世界を変える10大技術」に選ばれた理由については、こちらで詳しく読むことができる(すべてのリストはこちら)。
ドイツの製薬大手のメルク(Merck)は、PrEP治療薬を腕に埋め込んだマッチ棒大のプラスチック・チューブから投与するという、新しい手法を模索してきた。
2018年、本誌のアントニオ・レガラード編集者は、中国深センでフー・ジェンクイ(賀建奎)率いる研究チームが、ヒト胚の遺伝子を編集して世界初の「遺伝子編集ベビー」を誕生させたというニュースを報じた。同チームは、生まれた子どもにHIVへの耐性を持たせるために遺伝子を編集したと主張した。
最初に承認されたmRNAワクチンは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)用だった。そのmRNAワクチンの一部を開発した製薬会社のモデルナ(Moderna)は現在、同様の手法でHIV向けワクチンの開発に取り組んでいる。
陰謀論を広めるポッドキャストや書籍のおかげで、エイズ否認主義が再燃している。そのうちの1冊は、新たに米保健福祉省長官に任命されたロバート・F・ケネディ・ジュニアが執筆したものである。
MITテクノロジーレビューの関連記事
- 本誌は先週、ケナガマンモスに似た特徴を持つ動物「ケナガマウス」の誕生に関する記事を掲載した。開発した科学者たちは、絶滅したケナガマンモスを蘇らせることに一歩近づいたと考えている。しかし、ケナガマンモスは、科学者たちが「脱絶滅」を試みてきた動物の一種に過ぎない。そのリストには、ドードー、リョコウバト、さらには口から赤ちゃんを吐き出して「出産」するカエルまでが並んでいる。(ディスカバー・ワイルドライフ)
- バイオテクノロジー企業のビーム・セラピューティクス(Beam Therapeutics)は、肝臓や肺に影響することがある不治の遺伝性疾患を持つ人々のDNA変異を修正したと主張している。研究チームによると、変異した遺伝子を正常に戻せたのはこれが初めてだという。(ニューヨーク・タイムズ)
- 2020年の新型コロナウイルス感染症のピーク時、ジェイ・バタチャリヤは、当時米国国立衛生研究所の所長だったフランシス・コリンズから「異端の疫学者」とみなされていた。現在、そのコリンズは退任し、バタチャリヤがその後を継ぐかもしれない。異端者がトップになったらどうなるのか?(ジ・アトランティック)
- トランプ政権は、米国疾病予防管理センター(CDC)長官にデイブ・ウェルドンを指名していたが、取り下げた。ウェルドンは長年、ワクチンを批判してきた。(スタット)
- ミシシッピ州は、実験室で培養された食肉を禁止した米国で3番目の州となった。同州の農業長官は、ステーキは「実験室のシャーレではなく、農場で飼育された牛肉」から作られることを望んでいると書いた記事を彼のWebサイトに掲載した。(ワイアード)