バーチャル臓器で臨床試験、
デジタルツイン革命が
医療にやってくる
コンピューター上に再現された心臓や脳、そして胎盤。患者一人一人の臓器を精密に複製する「デジタルツイン」技術が、医療の現場に革新をもたらそうとしている。手術のシミュレーションから将来的には新薬の臨床試験まで、期待は高い。 by Jessica Hamzelou2025.01.23
- この記事の3つのポイント
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- 心臓や脳などの臓器を複製するデジタルツインが医療に革命をもたらす可能性
- 将来は人体全体をデジタルツイン化し、薬の開発や臨床試験への応用が期待される
- 患者の自律性やプライバシーの問題など懸念すべき点も残っている
健康な心臓は1分間に60~100回の一定したペースで拍動する。しかし、すべての人がそうとは限らない。段ボール箱の中にある約20個のプラスチック製の心臓を覗き込みながら、そのことを改めて思い出した。これらの心臓はすべて、本物の人間の心臓を模したレプリカだ。
かつてはロンドン西部にある研究室の棚に置かれていたこれらのレプリカ心臓は、隣接するハマースミス病院で心臓病の治療を受けていた人々のMRI(磁気共鳴画像法:Magnetic Resonance Imaging)やCT(コンピューター断層撮影法:Computed Tomography)のスキャン・データから作られたものだ。アラン・チューリング研究所およびインペリアル・カレッジ・ロンドンの生体工学者であるスティーヴン・ニーデラー教授が、オフィスにある3Dプリンターを用いて製造した。
その中には、赤いリサイクルプラスチックで3Dプリントされたものが1つあり、まさに私が心臓と聞いて思い浮かべる形をしている。片手にすっぽり収まるサイズで、教科書に記載されている通りの大きさの心室を備えている。赤い色のためか、本物のように見える。
他の心臓は、私には非常に大きく見えた。特に、黒いプラスチックで3Dプリントされたものは、赤いものの2倍以上の大きさに思えた。後になって分かったことだが、この心臓は心不全を患っていた患者の心臓をモデルにしたものだった。
これらのプラスチック製の心臓は、あくまで教育目的のものである。しかし、ニーデラー教授がより関心を寄せているのは、コンピューターを用いて人々の心臓の詳細なデジタル・レプリカを作成することだ。この「デジタルツイン」は、実際の心臓と同じ大きさ・形状を持ち、同じように機能するが、バーチャル空間にしか存在しない。科学者たちは、このバーチャルな心臓を用いたシミュレーション手術をし、患者の症状に最適な治療法を探ることができる。
何十年にもわたる研究の成果として、このようなモデルが臨床試験に導入され、患者の治療に活用され始めている。また、他の多くの臓器のデジタルツインの開発も進められており、工学者たちは、人間の脳、腸、肝臓、神経系などのバーチャルな複製を作成しようとしている。さらに、手術のシミュレーションや顔の特徴の分析に活用できるバーチャルな顔のレプリカや、デジタル空間内でのがん治療薬の試験もされている。最終的な目標は、私たちの身体全体のデジタルツインを作ることだ。つまり、コンピューター上に作られた私たちのデジタルコピーが、研究者や医師にとって病気の発症リスクの評価や最適な治療法の決定を支援するツールとなる。これらのデジタルコピーは、私たち個々人の「実験体」となり、薬の効果をシミュレーションした上で、実際の治療に応用できるようになるだろう。
ニーデラー教授のような工学者たちにとって、このテクノロジーはすでに現実のものとなりつつある。いくつかの先行研究が完了し、より大規模な臨床試験が進行中だ。この分野の研究者たちは、臓器を基にしたデジタルツインが今後5~10年以内に臨床医療の一部となり、診断や外科手術の意思決定を支援するようになると考えている。さらに将来的には、実際の患者データをもとに作成されたバーチャルな人体、いわゆる「合成患者」による臨床試験も可能になるかもしれない。
しかし、この芽生えたばかりのテクノロジーは、慎重に発展させる必要がある。一部では、この高度に個人化されたデータを誰が所有することになるのか、どのように使われる可能性があるのか、といったことを心配する声もある。また、患者の自律性を案じる声もある。単純なバーチャルな記録を使って診察することで、医師が生身の患者を無視するようになってしまうのではないかと懸念しているのだ。さらに、コンピューター内で人間を再構成しようとする考えに対し、直感的な嫌悪感を覚える人たちもいる。「人々は、『私をコピーしないでほしい』と言うでしょう」。デジタルツイン技術に取り組んでいる英国リヴァプール大学のワービ・エル=ブーリ講師は話す。「自分の一部が奪われたように感じるからです」。
デジタル化する
デジタルツインは、他の工学分野ではすでに確立された技術である。例えば、機械やインフラのモデル化には、かなり以前から利用されてきた。最近では、「デジタルツイン」という言葉はバズワード化しているかもしれない。しかし、医療分野でこの技術に取り組んでいる研究者にとっては、極めて具体的な意味を持つ概念である。
デジタルツインには、独立した3つの構成要素があると考えることができると、エル=ブーリ講師は言う。 1つは、モデル化の対象となるものだ。それはジェット・エンジンや橋かもしれないし、人の心臓かもしれない。 基本的には、研究や試験の対象となるものである。
2つ目の要素は、その対象物のデジタル・レプリカである。デジタル・レプリカは、実物のあらゆるデータを測定し、それをコンピューターに入力することで作成できる。心臓の場合、血圧の記録のほか、MRIやCTのスキャン・データなどが含まれる。3つ目は、モデルに加えられる新しいデータだ。真のデジタルツインは、リアルタイムでアップデートされるべきものだ。たとえば、それが誰かの心臓のモデルである場合、ウェアラブル・センサーから収集した情報で継続的にアップデートされる。
また、情報の転送は双方向でなければならない。センサーがある人物の心臓データを転送できるのと同様に、コンピューターは将来起こり得るシナリオをシミュレーションし、それらの予測を患者や医療提供者にフィードバックできる。例えば、医療チームは、ある患者が特定の薬にどのように反応するのかを予測したり、実際の手術に先立ってデジタル・モデル上でさまざまな手術方法を試したりすることができる。
この定義に従えば、健康データの一部を追跡するスマートデバイスは、初歩的なデジタルツインの一種と見なせるかもしれない。「アップル・ウォッチは、特に目新しいものではありませんが、デジタルツインの定義を満たしていると言えるかもしれません」とニーデラー教授は言う。「アップル・ウォッチは、心房細動を検出すると通知してくれます」。
しかし、ニーデラー教授らが開発を進めているデジタルツインは、はるかに精密で詳細なものである。それは、ある人が直面している病気のリスクや、最も効果的な薬、さらには最適な手術方法について、具体的な助言を提供できる可能性を秘めている。
現在の技術では、まだそのレベルには達していない。飛行機や橋のデータを測定するのは比較的容易だが、人体から継続的にデータを収集するのははるかに難しい。特に、心臓や脳の内部機能に関する詳細なデータを取得するのは容易ではないと、ニーデラー教授は指摘する。現在のところ、工学者たちは、病院や研究機関で以前に収集されたデータを基に「患者固有のモデル」を作成しているが、これらのデータはリアルタイムでアップデートされているわけではない。
現時点で最も進んでいる医療用デジタルツインは、人間の心臓を模したものである。この分野の研究が最初に進められた理由の一つは、心臓がポンプとして機能するため、工学者にとってなじみ深いシステムであること、そして心臓病が非常に多くの健康障害や死亡の原因となっていることだと、エル=ブーリ講師は説明する。現在では、画像処理技術の進歩とコンピューターの処理能力向上により、臨床応用に必要なレベルの忠実度で心臓を模倣できるようになっている。
心臓を構築する
デジタル心臓を構築する最初のステップは、実際の心臓の画像を収集することだ。研究チームごとにアプローチは多少 …
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