かつて、火星の表面には水が流れていた。海岸線には波が打ち寄せ、強風が吹き荒れ、どんよりとした曇り空からは激しい雨が降っていた。40億年前の火星は地球とさほど変わらなかった。ただし、1つ重要な点で異なっていた。大きさである。火星の直径は地球の約半分であり、それが問題だった。
火星のコアは急速に冷え、やがてこの惑星は磁場を失った。その結果、太陽風に対して脆弱になった火星は、大気の大部分を吹き飛ばされてしまった。太陽の紫外線を防ぐ大事な盾がなくなり、火星は熱の保持ができなくなった。海の一部は蒸発し、残りは地下に吸収され、残った水は極点のわずかな氷だけになった。惑星全体を覆う砂嵐からの静電気放電と、容赦なく降り注ぐ放射線は、乾燥した火星の土壌の中で化学反応を引き起こし、最終的に過塩素酸塩と呼ばれる厄介な有毒塩類だらけにした。かつて火星に草が生えていたとしても、そのような時代は終わったのだ。
しかし、もう一度そのような時代に戻すことはできるのだろうか? 火星で未来の宇宙飛行士たちに食料を提供するため、植物を育てるには、何が必要なのだろうか? サイエンス・フィクションの世界では、それほど深刻な問題ではない。2015年の映画『オデッセイ』でマット・デイモンが演じたキャラクターは、温室を作り、人間の排泄物を撒き、水を加えて待つだけでよかった。この映画は多くのことを正しく理解していた(確かに、人体の微生物群系に存在する細菌は役に立つだろう)が、過塩素酸塩のことは考慮に入れていなかった。実際にはこのキャラクターの命を支えたジャガイモは育つことはなかっただろうが、たとえ育ったとしても、汚染された発がん性のあるジャガイモを2年間食べることで、キャラクターの甲状腺は破壊され、腎臓は痛めつけられ、細胞はダメージを受けただろう。ただし、過塩素酸塩は神経毒性もあるため、そんなことに気づきもしなかったかもしれない。マット・デイモンが死を迎える最高のシーンになっていただろう。
アンディ・ウィアーが映画の原作となる本を執筆していた当時、過塩素酸塩がどれほど豊富に存在し、どれほど広がっているのか、本当のところ誰も知らなかった。2008年に米国航空宇宙局(NASA)のフェニックス(Phoenix)着陸機によって過塩素酸塩は発見されていたものの、その後の探査車(ローバー)による調査や、過去に収集されたさまざまなデータから、過塩素酸塩は火星のあらゆる場所に存在するだけでなく、豊富に存在することが実際に確認された。火星表面全体の過塩素酸塩濃度は、重量ベースで約0.5%になる。地球上での濃度は、通常その100万分の1程度だ。
NASAにとって、過塩素酸塩は非常に深刻な問題である。NASAのアルテミス(Artemis)計画の最終目標は、火星に宇宙飛行士を着陸させることだ。そして過去10年にわたり、NASAは火星で「地球に依存しない」人類の恒久的な居住を目指す長期計画を追求してきた。信憑性は薄いもののより野心的な計画として、スペースX(SpaceX)の最高経営責任者(CEO)であるイーロン・マスクは、今後20年の間に100万人の人々が火星で暮らすようになると予想していると明言してきた。
独立した火星という概念には、必ず過塩素酸塩の問題を解決する必要性が伴う。補給ミッションは、その名が示すとおり、地球に依存する手段だ。そして水耕栽培は、大勢の人々へ食料を供給するのに不十分である。
「10人、もしかすると20人ほどのクルーであれば、水耕栽培で問題なく(食料を)維持できますが、それ以上の規模にはできません」。植物ストレス生理学を専門とするウィンストン・セーラム州立大学(ノース・カロライナ州 )のラファエル・ロウレイロ准教授は言う。水耕栽培システムは地球上で構築しなければならない。また、エネルギー効率の悪いポンプや、細菌・真菌感染の常時監視も必要となる。「クローズドループ(閉鎖型)のシステムなので、いったんシステムが感染すると、すべての作物を失うことになります。すべてを廃棄し、リセットしなければなりません」。
ロウレイロ准教授によれば、唯一の実現可能な解決策は、火星の大地を耕作することだという。「過塩素酸塩の問題は、必ず対処しなければならない問題です」。
火星には土がない。埃っぽく有毒なレゴリス(惑星表面を構成するもろい岩、砂、塵の混合物)があるだけだ。地球上のレゴリスには、何十億年分もの分解された有機バイオマス、つまり土壌が豊富に含まれているが、火星にはない。火星では、ただ単に地面に種を撒き、水を与えるだけでは、食料になるものを育てられないのだ。生命を支えることができる土壌の層を作り出す必要がある。そのためにはまず、有毒な過塩素酸塩を取り除かなければならない。
過塩素酸塩を除去する方法は複数ある。過塩素酸塩は焼き尽くすことができる。この化合物は400℃前後で分解される。しかし、そのためには原子炉のような動力源と、多くの補助装置が必要になる可能性が高い。レゴリスから過塩素酸塩を文字どおり洗い流すこともできる。しかし、ロウレイロ准教授は「途方もない量の水が必要です。私たちの知る限り、水は限られた資源です」と説明する。同様に、かなりのエネルギーも必要になるだろう。「長期的には実現不可能な方法です」。理想的な解決策は、大掛かりな機械に頼るものではない。むしろ小さなもの、実際に微小なものに頼ることになるだろう。
NASAと米国立科学財団(NSF)は、将来の宇宙飛行士が微生物を使って火星の土壌から過塩素酸塩を取り除くだけでなく、レゴリスを耕作可能な土壌に改良する方法を探る研究に対し、資金を提供している。この研究は、地球上のさまざまな場所で同様のことを実施するために積み重ねられてきた長年の努力が基礎になっており、もし成功すれば2つの惑星の農業を1つ分の費用で改善することになる。
火星農業というアイデアを、架空の未来の非現実的な問題としてはねつけるのは簡単だ。しかし、科学者たちはこの種の問題を、人類が火星に向けて旅立った後ではなく、ロケットを打ち上げる前に解決しなければならない。そして、NASAの研究の多くと同様に、「あちら」での問題解決は、「こちら」での生活にも直接関わってくる。簡単に言えば、私たちが火星から学ぶことは、ここ地球でも、痩せた荒地を豊かな農業地帯に変えるために利用できるかもしれないのだ。地球上で過塩素酸塩の自然濃度が最も高いのは、砂漠地帯である。 それ以外で濃度が高い地域は、産業廃棄物が原因となっている場合が多い。この毒素は、将来の火星の植物に与える害と同じくらい、地球の植物にも害を与える。そのため、過塩素酸塩濃度の改善に関心を持っているのはNASAだけではない。米国農務省までもが、このような研究に資金を提供している。
「もし完全に異質な環境で植物を育てることができたなら、そのために作り出したテクノロジーは、ここ地球上でも、食糧不足の場所に100%移転可能です。極度に乾燥していて、農業に適さない場所や、鉱山会社による採掘の影響で土壌が汚染されている場所にも応用できます」とロウレイロ准教授は言う。
「火星のレゴリスで植物を育てることができるなら、地球上のどこででも育てることができます」。
小さく考える
アリゾナ州立大学バイオデザイン研究所(Biodesign Institute)の科学実験室は、黒い長テーブル、無数の顕微鏡、小さなボトルのラックなどが並び、米国のどこにでもある生物学教室の大規模版のように見える。しかし、よく見ると、顕微鏡は少し風変わりなことに気づく。そして、顕微鏡に混ざって、ガスクロマトグラフや有機炭素分析器などのハイテク機器もある。
微生物学者のアンカ・デルガド准教授が入り口で私を出迎えてくれた。私たちはそこで白衣とゴーグルを身につけた。「今日は何も飛び散らせる予定はありませんが、安全を期したいと思います」と同准教授は話した。
地球の土壌は湿潤で、もぞもぞとした動きがあり、生命に満ちあふれ、地殻活動と微生物活動、岩石循環のおかげもあって鉱物組成は非常に多様である。しかし、火星は見た目だけでも、何かが大きく違っていることが分かる。この小さな惑星のコアは、鉄の多くがその中心に沈み込む機会を得る前に冷えてしまったのだ。その結果、火星のレゴリスには鉄分を多く含む鉱物があふれており、それが長い年月をかけて酸化した。火星の外側は、文字通り錆びているのだ。水がないため、主に風と温度によって進む機械的風化作用を通して変化する。また、生命が存在しないため、完全に無機質である。
これらすべての違いにもかかわらず、デルガド准教授と教え子の大学院生、そして全米の同僚たちは、過塩素酸塩の問題を解決し、火星のレゴリスを耕作可能にする可能性がある方法を見つけた。
過塩素酸塩とは、マイナスの電荷を持つ塩素イオン(塩化物イオン)と酸素イオン(酸化物イオン)が、ナトリウムイオンなどの陽イオンと結合してできた塩類である(過塩素酸塩と同じ陰イオンを持つ過塩素酸=過塩素酸イオンも存在する)。地球上に過塩素酸塩が豊富に存在する場所があるのは、多くの場合、人間がそこに過塩素酸塩を残したためである。軍需品の製造からディズニーランドの壮観な花火まで、あらゆるものが過塩素酸塩の原因となってきた。過塩素酸塩だけが、第二次世界大戦前後に米国が夢中になった塩素化合物ではない。米国は何十年もの間、ドライクリーニングや金属の …