毎日、今この瞬間も、誰かが中国語をタイピングしている。香港の公園で、台湾のデスクで、自動ドアが開くたびにチャイムが鳴る上海のファミリーマートのレジの列で。だが、英語やフランス語のタイピングとは少し仕組みが異なるようだ。人々は通常、文字の発音を入力し、自動補完で示される選択肢から入力したい文字を選ぶ。これほどまでに毎日繰り返されている作業はなかなかないだろう。この入力を可能にしているソフトウェアの存在は、それを利用している人々のほぼ誰にも意識されることはない。ただそこにある「もの」なのだ。
ほとんど忘れ去られていること、そしてアジア人以外の大半の人々がそもそも知らなかったことは、大勢の風変わりな人々や言語学者、エンジニアや博識家が20世紀の大半を費やして、どのようにして中国語を毛筆による手書きから他の方法へと移行させるかについて頭を悩ませていたことである。 このプロセスは、ここ2年間に出版された2冊の書籍の主題となっている。スタンフォード大学のトーマス・マラニー教授(歴史学・東アジア言語文化学)の学術書『The Chinese Computer(中国のコンピューター)』(2024年刊、未邦訳)と、より平易な内容のイェール大学のジン・ツー教授(比較文学・東アジア言語文学)による書籍『Kingdom of Characters(文字の王国)』(2022年刊、未邦訳)だ。マラニー教授は、1940年代から始まった中国語のさまざまな入力システムの発明に焦点を当てている。一方のツー教授は、中国語を標準化し、電報、タイプライター、コンピューターを使って中国語を伝達しようとする100年にわたる取り組みが描かれている。どちらの書籍にも波乱万丈で混沌とした物語が綴られており、そこに描かれている無益な結果には、少々無力感を覚える。
漢字は見かけほど不可解なものではない。一般的なルールは、漢字は単語を表すか、場合によっては単語の一部を表すというもので、中国語を読むことを学ぶ過程は暗記のプロセスが必要だ。読み方を学ぶにつれ、ある文字をどのように発音するべきかを推測するのは容易になる。なぜなら、発音を表す要素が漢字の構成要素の中に含まれていることが多いからだ。漢字は伝統的には筆を使って手書きされるものであったため、中国語の読み書きができるようになるには、書き順を覚えることも必要になる。書き順を間違えると、正しい漢字には見えなくなる。というより、これは筆者が数年前に中国の広州で第二外国語として中国語を学んでいたときに感じたことだが、幼稚な文字に見えてしまうのだ(中国文学の翻訳者である私の夫は、30歳にもなって幼稚園児のような文字を書く私のことを滑稽で微笑ましいと感じていたようだ)。
しかし、問題なのは文字の数が多いことだ。基本的に中国語の読み書きができるというレベルになるには少なくとも数千文字を知っている必要があり、その基本の文字群以外にも数千という文字が存在する。現代の中国語学習者の多くは、少なくとも最初のうちは基本的にフルタイムで中国語の読解学習に専念するものだ。100年以上前、中国語の読み書きの学習は途方もない作業であったため、それが中国が外国からの干渉や侵略の対象になる原因なのではないかと、主要な思想家たちは懸念していた。
19世紀、大多数の中国人は読み書きができなかった。学校教育をほとんど受けることができなかったからだ。彼らの多くは自給自足の農民だった。中国は、その膨大な人口と広大な領土にもかかわらず、より迅速な対応力がある工業化が進んだ外国との取引では常に不利な立場に立たされていた。19世紀半ばのアヘン戦争は、外国勢力が事実上中国を植民地化するという事態を招いた。数少ない先進的なインフラのほとんどは外国人によって作られ、所有されていた。
識字率の低さ、教育不足、工業化の遅れが、中国の生存と発展に関連していると感じる人もいた。例えば、言語学者のワン・ジャオ(王昭)は話し言葉の中国語をより簡単に書くことが、国家の存続に不可欠だと考えた改革者だった。ワンのアイデアは、中国語のある特定の方言を表す発音記号のセットを使用するというものだった。アルファベットを使用する言語の話者がそうであるように、ほんの少しの発音記号を覚えただけで言葉を音読できるようになることで、文字の発音と形状を関連付けられ、より早く、効率的に識字能力を身につけることができるのだ。識字能力があれば、技術的なスキルを学び、科学を学び、中国が自国の未来を取り戻す助けになる …