2016年、私はワシントンDCで開催された大規模なジャーナリストの会合に出席した。基調講演者はジェニファー・ダウドナ(カリフォルニア大学バークレー校教授)。彼女は当時からさかのぼってわずか数年前にCRISPR(クリスパー)という画期的な遺伝子編集手法を共同発明していた。クリスパーは非常に簡単な手法だったので、たちまち各地の生物学研究室に広まった。ダウドナ教授は、クリスパーの発見によって、人類は自らの根源を成す分子の性質を変える能力を手に入れたのだと説明した。そしてその能力は、可能性と危険性を併せ持っていた。彼女が恐れていたことの一つは、「ある朝起きて、史上初のクリスパー・ベビー誕生の記事を読むこと」だったという。クリスパー・ベビーとはつまり、生まれながらに意図的な遺伝子改変を施された赤ちゃんのことだ。
遺伝子工学を専門とするジャーナリスト(変人であればあるほど適性も高い)である私は、別のことを恐れていた。クリスパー・ベビーは世紀のスクープになるだろう。それを他のジャーナリストがものにすることが私の心配事だった。今や遺伝子編集は生物工学分野で最大のテーマとなった。かつて中国のチームがサルのDNAを改変し、カスタマイズされた突然変異を組み込むことに成功した。そう遠くないうちに、さらに限界が押し広げられるのは明らかだった。
もし誰かが遺伝子編集された赤ちゃんを作れば、道徳的、倫理的な問題が生じるだろう。その中で最も重大なのは、そうすることで「人類の進化を変えてしまう」ことだとダウドナ教授は私に語った。何らかの遺伝子編集が施された胚が発育して赤ちゃんになれば、その変異は生殖細胞系列と呼ばれるものを介して子孫へと受け継がれる。そんなことを試みるほど豪胆になれるのは、どんな科学者なのか。
それから2年が経ち、飛行機に乗って約1万3000キロメートルを旅した末に、私はその答えを見つけた。私は中国の広州にあるホテルでドキュメンタリー映画のクルーと合流し、当時は南方科技大学准教授だったフー・ジェンクイ(賀建奎)という生物物理学者との面会に臨んだ。フー准教授はアドバイザーたちを伴ってやってきた。面会の間、彼はたいへん社交的な様子で、マウス、サル、およびヒトの胚に関する研究、そして彼が最終的に目指す計画について熱っぽく語った。その計画とは、有益な遺伝子を人々に生まれつき付与することで健康を増進するというものだった。その段階に至るのはどうしたって先のことに違いないと想像していた私は、それを実現できるほどにテクノロジーは成熟しているのかと尋ねた。
「成熟しています」。フー准教授は言った。それから重苦しい沈黙を挟んでこう言い添えた。「ほぼ、しています」。
その4週間後、フー准教授がそれをすでに実行していたことを私は知った。フー准教授がネット上に公開していた、遺伝子編集された2人のヒトの胎児(つまり母体内の「クリスパーベビー」)の遺伝子プロファイルを記したデータと、HIVに免疫のあるヒトを作るという計画の説明を見つけたのだ。フーが目をつけたのはCCR5と呼ばれる遺伝子だった。一部の人の体内では、この遺伝子にHIV感染を防ぐことで知られる変異が起こっている。スプレッドシートの数字を見て鳥肌が立つようなことはめったにない(直近の北極の気温を見て同じように感じる気候学者はいるかもしれないが)。歴史的な、そして恐ろしいことが、すでに起こってしまったのだと思えた。このニュースを世界で初めて報じた本誌の記事では、遺伝子調整されたヒトの誕生は、医学的なブレークスルーと、人間強化へなし崩しに至る危険な道のりの第一歩との中間にある、との考えを示した。
後にフー准教授は3年の禁固刑を言い渡され、その研究手法は徹底的な非難を浴びた。双子の女児とわかった赤ちゃん(加えて、後に存在が明かされた3人目の赤ちゃん)に施された遺伝子編集は、彼自身のデータによれば、無秩序と言ってもいいやり方でぞんざいに実施されたものだった。メディアや学術界の多くの批判者(私もその一人だった)は連日のように批判記事や暴露記事を掲載し、神をも恐れぬ禁忌を犯したとばかりにフー准教授と彼のアドバイザーたちを糾弾した。今年の春には、カリフォルニア大学バークレー校の遺伝子編集専門家であるフィオードル・ウルノフ教授がX(旧ツイッター)上でフー元准教授を科学界の「放火魔」と呼び、J.R.R.トールキンの『指輪物語』に登場する魔物バルログになぞらえて非難した。フー元准教授の罪はあたかも、単なる医学上の不正行為ではなく、あなたや私、そして彼を誕生させたプロセスそのものを、大胆にもコントロールしたことにあるかのようだった。
人類の運命について記す未来学者は、あらゆる種類の変化を想像してきた。私たちはみな、よい遺伝子を搭載した補助的な染色体を与えられるか、みなそっくりのクローン集団の一員として生きていくのかもしれない。もしかしたら幹細胞だけで繁殖するようになり、性行為は時代遅れになるかもしれない。あるいは、別の惑星への入植者が長い間孤立した結果、独自の種となるかもしれない。一方、フー元准教授のアイデアは、手の届く場所にある科学的現実から導き出されたものだ。遺伝子の突然変異の中には痛ましい希少疾患を引き起こすものがあるのと同様、糖尿病や心臓病、アルツハイマー病、HIVのような一般的な病気への抵抗力を少数の人々に与えるとわかっているものもある。そうした有益な、超能力めいた形質は、十分な時間があれば人類全体に広がっていくかもしれない。しかし、自然淘汰の成果が出るまで10万年も待つ必要はあるだろうか。数百ドル分の化学薬品があれば、これらの変異を10分で胚に組み込むことができる。そのような変化を起こすためには、これが理論上最も簡単である。たった一つの細胞に手を加えればいいのだから。
ヒト胚の編集は多くの国で制限されており、法学者が調査した国のほとんどは、遺伝子編集した赤ちゃんを作ることを明確に違法としている。しかしテクノロジーの進歩によって、胚の問題は争点から外れるかもしれない。クリスパーをすでに生まれている人々、つまり子どもや大人の体に施す新しい方法が開発されれば、遺伝子編集を受けるのも容易になるだろう。実際、125年後のヒト・ゲノムがどうなっているかに関心を寄せてみれば、今は人口のごく一部にしか見られない希少だが有用な複数の突然変異の恩恵を、多くの人が受けるようになる可能性がある。そうなれば一般的な病気や感染症から身を守れるかもしれない。やがて身長や代謝、はては認知機能など、他の形質も目に見えて改善させられる可能性がある。このような変異は子孫に遺伝することはないだろうが、もし広まったのなら、それもまた人間主導の自己進化の一形態となるだろう。それがコンピューターの知性や、私たちの身の回りの物理的世界のエンジニアリングに匹敵する重要性を持つことは間違いない。
私が驚いたのは、フー元准教授の批判者がそのやり方を問題視する中でさえ、彼のプランの基本的な部分は遅かれ早かれ現れるものと見られていたことだ。2005年に「ゲノム編集」という言葉を生み出すのに一役買ったウルノフ教授に、たとえば100年後のヒト・ゲノムはどうなっているだろうかと私は尋ねた。すると彼は、遺伝子編集テクノロジーが進歩するにつれ、非常に有益な遺伝子を使ったゲノムの改良が、おそらく成人や胚に対して広く施されるようになるだろうとためらいなく述べた。ただし、人類がものごとを正しいやり方で進めるとは必ずしも信じていないと彼は警告した。一部の集団は、健康面での恩恵をいち早く享受できるようになるかもしれない。また商業上の利害によって、最終的には無益な方向へ向かう可能性もある。ちょうどアルゴリズムによって、彼の教え子たちが異様なまでに携帯電話を見続けるのと同じように。「節度と知恵を欠いてきた私たちの歴史を振り返れば、100年後のヒトゲノムのありように対する私の熱意にもブレーキがかかります」とウルノフ教授は言う。「オルダス・ハクスリーでなくともディストピアを描き始められるのです」。
早期の編集
2024年5月のある日、北京時間の午後10時頃、テンセント(Tencent)のテレビ会議アプリにフー元准教授の顔が映し出された。私が初めて彼にインタビューしてから6年近くが経っていた。天井が高く、壁にワイドスクリーンのテレビが設置されたロフト風の空間にフー元准教授は現れた。私はウルノフ教授から、フー元准教授と話さないよう忠告を受けていた。「バーニー・マドフ(日本版注:大規模ネズミ講詐欺事件の首謀者。受刑中に獄中で死亡)に倫理的投資について意見を求めるようなもの」だからだという。それでも私はフー元准教授と話をしたかった。なぜなら彼は今も、人類の遺伝子を幅広く改良するというアイデアを熱心に推進する数少ない科学者の1人だからだ。
もちろん、フー元准教授自身の行為が世間の反発を招いたのは事実だ。彼の実験の後、中国は遺伝子編集したヒト胚を子宮へ「移植」することを正式に犯罪と定めた。資金源は消えてなくなった。オレゴン健康科学大学の不妊治療専門医であるポーラ・アマート教授は、「フー元准教授のせいで逆風が吹き、何人もの人々の研究がストップしました。そもそも研究しようという人はそう多くありませんでしたが」と話す。研究室におけるヒト胚の編集を報告した米国のチームはこれまでに2つしかないが、アマート教授はそのうち一つの共同リーダーを務めている。 「風評も問題です。スキャンダラスだったり …