手術室のすべてを記録する
「AIブラックボックス」
医療ミスは撲滅できるか
手術室の映像と音声を記録し、AI技術を用いて分析するシステムが欧米の一部の病院で導入されている。航空機に搭載されているブラックボックスの手術室版と言えるものだが、医師の反発は大きく導入へのハードルは高い。 by Simar Bajaj2024.06.17
- この記事の3つのポイント
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- 手術室のAI映像記録システムが手術の安全性向上に役立つ可能性
- プライバシーや法的リスクへの懸念から一部の外科医は導入に反対
- 大量のデータから洞察を得るのは容易ではなく、エビデンスはまだ限定的
自分が手術をする様子を初めて目にした外科医のテオドル・グランチャロフは、そのビデオテープを窓から放り投げたくなった。
「自分の手術は見事なものだ、というのが私の認識でした」。グランチャロフはそう言って間を置いた。「その映像を見るまでは」。彼は25年前のその手術を振り返り、自身の切開の粗雑さ、間違った器具を使っていたこと、効率の悪さから30分の手術が90分に長引いたことなどを思い出した。「その映像は誰にも見られたくありませんでした」。
こういった反応は特別なものではない。手術室は長らく秘密主義に包まれてきた。外科医は自らのミスを認めることが苦手であり、手術室で起きたことは他言無用とされてきた。グランチャロフはこんなジョークを語ってくれた。「世界最高の外科医3人は?」という問いに対し、典型的な外科医は「自分以外の2人を挙げるのに難儀する」のだという。
自分の手術を見て最初は屈辱を感じたグランチャロフだったが、後に自身の手術を記録することの価値を見出し始めた。「通常は長年の実務によって理解できるようになる非常に細かな要素がたくさんあります。外科医の中にはその域に達することのない者もいます」。グランチャロフはそう話す。「私は突然、そうしたあらゆる見識や可能性が見えるようになりました」。
だが、そこには大きな問題があった。1990年代当時、画質の粗いビデオテープの再生に何時間も費やすのは、手術の質を改善するための戦略としては現実的ではなかった。年間およそ2万2000人が死亡している深刻な医療ミスは言うまでもなく、グランチャロフ自身の比較的ありふれた不手際が大きな規模で見た場合にどの程度の頻度で起きているのかを見極めるのは、不可能に近かった。こうしたミスの多くは、患者の体内に手術用スポンジを置き忘れる、完全に間違った手術をしてしまうなど、手術台の上で起きている。
患者の安全性運動によって、そうしたミスを防ぐための統一されたチェックリストや各種マニュアルでのフェイルセーフ導入という流れが促進された一方、グランチャロフは「成功と失敗を隔てる唯一の防壁が人間である限り、ミスは起きる」と考えている。安全性と手術の効率改善は、個人的な執着のようなものになっていった。グランチャロフはミスを犯すことを困難なものにしたかった。彼は記録を作成し、分析するための適切なシステムが鍵になるかもしれないと考えた。
それには長い年月がかかったが、現在はスタンフォード大学の外科教授を務めるグランチャロフは、その夢を叶えるテクノロジーをついに開発できたと考えている。それが、航空機の「ブラックボックス」(フライトレコーダーとボイスレコーダーのこと)の手術室版である。パノラマカメラ、マイク、麻酔モニターによって手術室のすべてを記録し、人工知能(AI)を利用して外科医がそのデータを理解できるようにする仕組みだ。
手術を分析するAIを展開しているのは、グランチャロフ教授が経営する企業「サージカル・セーフティ・テクノロジーズ(Surgical Safety Technologies)」だけではない。メドトロニック(Medtronic)の「タッチ・サージェリー(Touch Surgery)」プラットフォーム、ジョンソン・エンド・ジョンソンの「C-SATS」、インテュイティブ・サージカル(Intuitive Surgical)の「ケース・インサイツ(Case Insights)」など、多くの医療機器メーカーが参入している。
だがこうした企業の大半は、患者の体内で起きていることにのみ焦点を当て、手術中の映像を記録するだけだ。グランチャロフ教授は、扉が開いた回数から手術中に手術と無関係な会話が交わされた回数に至るまで、手術室全体を記録したいと考えている。「皆、手術を技術的なスキルのみに単純化してきました。手術室の環境を包括的に研究する必要があります」。
だが、適切なテクノロジーを用意するだけで成功するというほど単純な話ではない。すべてを記録するとなると、プライバシーを巡る数々の厄介な課題がついて回り、医師には懲戒処分や法的リスクへの恐怖が生まれる可能性がある。こうした懸念から、ブラックボックスが設置されている場合に一部の外科医が手術を拒否したり、一部のシステムが破壊されたりする事態が起きている。これらの問題を別にしても、新しいデータをどう扱えばいいか、大量の統計を前にして混乱を避けるための方法が分からない病院もある。
それでもグランチャロフ教授は、ブラックボックスが航空産業において成し遂げたことを、自身のシステムも手術室に対して実現できると予想する。1970年代、航空産業では100万回のフライトに対して6.5回の死亡事故が起きていた。現在では死亡事故の数は0.5回未満に減っている。「航空産業はデータによって事後対応型から事前対応型へと移行しました。安全から超安全へと変わったのです」。
グランチャロフ教授のブラックボックスは現在、マウントサイナイ病院、デューク大学、メイヨー・クリニックをはじめ、米国、カナダ、西欧州の約40の医療機関に導入されている。病院は安全性の新時代を迎えようとしているのだろうか。それとも、混乱と疑心暗鬼の環境が生み出されようとしているのだろうか。
秘密主義を断ち切る
手術室は、おそらく病院の中で最も多くの評価がなされている場所だ。だが、最も記録が貧弱な場所でもある。チームのパフォーマンスから器具の取り扱いに至るまで、「私たちが記録すらしていないとんでもない量のデータが存在します」。アレクサンダー・ランガーマン准教授はそう話す。ランガーマン准教授はヴァンダービルト大学医療センターの倫理学者で、頭頸部外科医でもある。「代わりに私たちは、術後の外科医の記憶頼りでやっているのです」。
確かに何か問題が起きれば、病院で毎週実施されている死亡症例検討会で、外科医が症例を再検討することになっている。だが、そのようなミスは過小報告されやすい。仮に外科医が必要なメモを患者の電子医療記録に入力したとしても、「最も悪意のない言い方をしますが、間違いなく彼らの利益を最優先する形で記入されます」とランガーマン准教授は言う。「それで彼らの印象は良くなりますから」。
手術室は、必ずしも秘密の場所であり続けてきたわけではない。
19世紀には、手術はしばしば大規模な円形劇場で開かれ、市民が入場料を払って観覧できる公開ショーだった。「天井桟敷まで満席だった」と、腹部外科医のローソン・テイトは1860年代の手術について回想している。「おそらく700か800人は観客がいただろう」。
だが1900年代頃になると手術室はだんだんと小さくなり、一般人の目(それに細菌)には触れにくくなっていった。「たちどころに、何かが足りない、公共の監視が足りないという感覚が生まれました。狭くなった手術室の中で、何が起きたのかを知ることができなかったのです」。マッギル大学の医学史学者、トーマス・シュリッヒはそう話す。
そして過去に戻ることはほぼ不可能だった。1910年代、ボストンの外科医アーネスト・コッドマンは、最終結果(end-result)システムとして知られる監視方法を提案した。これはあらゆる手術(失敗、問題、誤りを含む)を記録し、患者の経過を追跡するものだ。マサチューセッツ総合病院はこれを受け入れず、失望したコッドマンは辞職したとシュリッヒは話す。
不透明性は、技術の進歩やゼネラリストの衰退、医療機関の官僚組織化を特徴とする、20世紀における医学の専門化への大きな変化の一部だった。こうした要素が患者と医者の間に距離を生むことになったのである。同時期、特に1960年代以降は、医療分野において医療過誤訴訟が増加し始めた。少なくともその要因の一部には、何か問題が起きた際に患者が答えを知ろうとしたことがあった。
透明性を巡るこの戦いは、理論上は手術記録によって対応できる可能性があった。だがグランチャロフ教授は、外科医にブラックボックスを使わせるためには、彼らが守られていると感じられるようにするほかないとすぐに理解した。そのために彼は、行動を記録しつつも患者とスタッフの身元を隠し、さらに30日以内にすべての記録を削除するようシステムを設計した。ミスをしたことによって個人が罰されるべきではない、というの …
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