2010年代初期、電気は診察室を乗っ取ろうとしているかのように見せた。神経系が免疫反応をどのようにコントロールしているかについての研究が、注目を浴びていたのだ。それにより、まるで免疫系がコンピューターのように再プログラム可能であるかのように、身体の回路をハッキングし、関節リウマチ、喘息、糖尿病といった多数の慢性疾患を抑制できるかもしれないという可能性が開かれた。
そのためには、新しい種類のインプラント(体内に埋め込む医療デバイス)が必要だった。それが2013年にネイチャー誌で正式に紹介された「電子薬(electroceutical)」だ。「私たちは医薬品に代わるデバイスを開発しています」。論文の共著者である神経外科医のケビン・トレイシー博士は、ワイアード(Wired)英国版の誌面でこう語った。これが「医療の中心」になるはずだった。厄介な副作用はもう起こらない。1つの医薬品の効果が個人間で異なるかもしれないと推測する必要もなくなる。
このビジョンの裏にはお金が動いていた。英国の製薬大手グラクソ・スミスクラインは、100万ドルの研究賞金、5000万ドルのベンチャー・ファンド、さらに特定の疾患を抑制する神経経路を特定するため40人の研究者に資金を提供するという野心的な計画を発表した。同社は、積極的なタイムラインを思い描いていた。同社の幹部によると、「私たちの身体の電気的言語を話せる史上初の医薬品を、10年以内に当局の承認を受けられる状態に持っていく」ことが目標だったという。
それから約10年の間に、直接的・間接的な資金提供により、この取り組みにはおよそ10億ドルが集まった。この電子薬推進の流れの中で開発されたインプラントの一部は臨床試験へと進み、グラクソ・スミスクラインおよびトレイシー博士と関連のある2つの企業は、今年中に派手な発表をする手はずを整えている。現在進行中の臨床試験がどの程度上手く行っているのかについて、まだ分かっていることは少ない。2013年に想像されていた各種デバイス、要するにさまざまな慢性疾患に応用可能なデバイスが、規制関連の承認を広く受けるという状況は、すぐには実現しないだろう。電子薬が医療に革命を起こすまでの道のりは遠い。
同時に、電気を使って身体に介入する際の別の方法に関して、科学の新領域がまとまりを見せ始めている。神経系、つまり脳と身体の間で電気信号を運ぶ幹線道路に注目するのではなく、皮膚や腎臓など身体の異なる場所にある細胞をかつてないほど直接的な形で電気で操作するための巧妙な方法を発見しようとする研究者が増えている。彼らの取り組みは、このアプローチが当初の電子薬への期待と合致する可能性がある可能性を示している。その期待とは、高速で治癒する生体電気包帯、自己免疫疾患の治療に対する新たなアプローチ、神経損傷の新たな修復法、より優れたがん治療の実現である。しかし、そうしたベンチャーは、気前の良い投資の恩恵を受けられていない。投資家は、生物学と電気の関係を神経系の文脈でしか理解していない傾向にある。「このような思い込みは、神経科学の100年間で植え付けられてきたバイアスや盲点から生まれたものです」。タフツ大学の生体電気研究者、マイケル・レビン教授は話す。
すでに電気インプラントは、てんかん、睡眠時無呼吸症候群、重篤な大腸機能障害といった特定の問題をターゲットにすることに関しては成功している。だが、特に免疫系に変化を加えることに関して、医薬品を神経活性化デバイスに置き換えるというより広いビジョンの実現には時間がかかっている。場合によっては、神経系からのアプローチが最適ではないのかもしれない。それ以外の場所に目を向けることで、とりわけ神経系が当初言われていたほどハッキングしやすいものではないことが明らかになった場合、より幅広い電気的医療介入への道が開かれる可能性がある。
そもそもは
グラクソ・スミスクラインの野心的な電子薬ベンチャーは、ますます厄介になっている問題への対応だった。その問題とは、医薬品の90%が臨床試験という障害物競走の途中で脱落してしまうことである。新薬がかろうじて成功を収めた場合でもコストは20億~30億ドルに上り、市場に出るまでに10~15年かかるため、投資に対する見返りは少ない。欠陥は投与システムにある。私たちが治癒効果のある化学物質を投与する方法といえば摂取するか注入するかで、ルネサンス期の医師パラケルススの頃から概念的見直しは大してされて来なかった。摂取と注入のどちらの方法にも、固有の効率の悪さが備わっている。医薬品が体内のシステムに蓄積されるまでには長い時間がかかり、目標に到達するまでに薄まり、広範囲に消散してしまう。これにより、必要な場所では役に立たず、別の場所で害を及ぼす可能性がある。トレイシー博士とネイチャー誌に掲載された論文の共著者で、当時グラクソ・スミスクラインの副社長だったクリストファー・ファムは、宣伝行脚の際に電子薬がこの問題を解決すると説明した。電子薬ならよりすばやく、介入が必要な場所にのみ正確に作用させられるというわけだ。500年の時を経て、ついに新たなアイデアが生まれたのである。
いや、正確に言えば全く新しいわけではない。 神経系に電気刺激を与えることに関しては、20世紀半ばから有望な成功例が積み上げられてきた。例えば、パーキンソン病の症状には脳深部刺激療法(DBS:Deep Brain Stimulation)、手に負えない痛みには脊椎刺激療法での治療が実施されてきた。しかし、こうした介入は軽々しく実行できるものではなかった。インプラントは脊椎あるいは脳に埋め込む必要があるため、考えただけでも恐ろしくなる話だ。別の言い方をすれば、このアイデアは決して金儲けにつながらないのである。
当時のグラクソ・スミスクラインは、健康状態をより広範囲にコントロールできる可能性があること、それをよりアクセスが容易な神経を利用して実現できる可能性があるというエビデンス(科学的根拠)が見つかったことに刺激を受けた。21世紀が始まる頃には、よりリスクは少なく、恩恵は大きい形で神経系を活用できる可能性があることが明確になった。なぜなら、さまざまな研究結果によって末梢神経系(基本的に脳と脊椎を除くすべて)はそれまで考えられていたよりはるかに広い影響力を持っていることが示されたからである。
末梢神経系には外界の知覚認識をする以外の働きはない、という考え方は長きにわたって支配的だった。この情報は、四肢や臓器から発生した多数の小さな神経の支流に沿って脳へと送られる。この小さな神経の大半は体幹にある1本の主要路である迷走神経に合流している。
コロラド大学ボルダー校の研究チームを率いている神経科学者のリンダ・ワトキンス教授が1990年代に始めた研究によって、末梢神経系の主要高速道路である迷走神経は一方通行ではないことが示された。迷走神経は脳に向かって信号を届けるだけでなく、脳があらゆる臓器に向かうメッセージを送り返す、双方向伝達だったのだ。さらにこの通信回線により、例えば、感染に反応して熱を出すなど、脳が免疫系に対して支配力を発揮できるように見受けられた。
そして脳や脊髄と異なり、迷走神経は比較的アクセスがしやすかった。迷走神経は脳幹からの経路が首の表面に近いところを通っており、(首の)左右両側に太いケーブルのように走っているため、比較的簡単に電極を取り付けられる。通常は、左側の経路に取り付けて、刺激を与えるだけで良い。
この方法で迷走神経を通って脳へと送り届けられる信号の流れに干渉することで、 特にてんかんや治療抵抗性を持つうつ病といった脳の問題に関する治療は成功を収めた(こうした用途での電気インプラントの使用は、2000年頃に米国食品医薬品局=FDAによる承認を受けた)。だがワトキンス教授のチームが示した識見は、脳から信号が送られる方向で作用するものだった。
こうした要素を1つにつなぎ合わせたのがケビン・トレイシー博士だった。その後、同博士が迷走神経刺激研究の対外的な顔になるまでそう時間はかからなかった。同博士は2000年代に、迷走神経に電気刺激を与えることで動物の炎症を抑えられることを示し、これを「炎症性反射(inflammatory reflex)」と呼ぶようになった。この炎症性反射は、迷走神経が多岐にわたる疾患をオフにするスイッチとして作用する可能性があること、本質的に免疫系をハッキングし得ることを意味していた。2007年、ニューヨーク州にあるファインスタイン医学研究所(Feinstein Institute for Medical Research、当時は別名称)に拠点を置いていた同博士は、自らの識見を基にボストンのスタートアップ「セットポイント・メディカル(SetPoint Medical、以降セットポイント)」を立ち上げた。炎症性腸疾患と関節リウマチを皮切りに、迷走神経のスイッチを切り替え、苦痛を緩和するデバイスを開発することがセットポイントの目標だった。
2012年頃には、グラクソ・スミスクライン、トレイシー博士、米国政府機関の間に協調関係が築かれていた。同博士によると、ファム副社長やその他の研究者から「ネイチャー誌の記事に関して力になりたい」と連絡があったという。1年後、電子薬のロードマップを一般に発表する準備が整った。
研究者の未来についての話は、的確で分かりやすかった。トレイシー博士が宣伝行脚の際によく話していたセットポイントとアムステルダム大学学術医療センターの協力による人類初の事例研究が、それを物語っている。この研究チームは、関節リウマチに苦しむ男性に迷走神経刺激デバイスを移植した。デバイスによる刺激を受けて、男性の脾臓からアセチルコリンと呼ばれる化学物質が分泌された。次にアセチルコリンが、脾臓内の細胞に対してサイトカインと呼ばれる炎症分子の生産を停止するよう指示を出した。この男性にはこの手法がうまく機能した。彼は仕事を再開し、子どもたちと遊び、昔の趣味を再び始められるようにもなった。実際のところ、以前の活動を再開できることになったこの男性は、熱が入りすぎてスポーツで負傷してしまったと、報道陣の取材や記者会見で同博士は嬉しそうに語った。
こうした事例研究は、資金が流れ込むきっかけを作った。広範囲にわたる疾病とリスクの少ない手術という目標の組み合わせは、投資家にとって魅力的だった。脳深部刺激療法や侵襲的インプラントが希少で、曖昧で、重篤な問題に限定されていた中、身体に対するこの新たなインターフェイスはそれらよりもはるかに多くの顧客が見込めるものだった。関節リウマチのみならず、糖尿病、喘息、過敏性腸症候群、皮膚結核の一種の狼瘡(ろうそう)、その他多くの自己免疫疾患をはじめ、対象となる慢性疾患ははるかに広くまん延している。グラクソ・スミスクラインは、電子薬の先進的なビジョンを実現させるテクノロジーや企業への投資資金5000万ドルと共に、「アクション・ポテンシャル・ベンチャー・キャピタル(Action Potential Venture Capital Limited)」と銘打った投資部門を立ち上げた。創設後初の投資先は、セットポイントへの500万ドルだった。
迷信深い人なら、その次に起きたことが何かの前兆のように思えたかもしれない。「電子薬(electroceutical)」という言葉は、2008年に電気的治療技術の開発・販売をしていたアイビー・テクノロジーズ(Ivivi Technologies)という企業がすでに商標登録をしていた。「グラクソ・スミスクラインやセットポイントなどが活動を始めてすぐに、それは当社の商標だと警告を送ったことは確かです」。アイビー・テクノロジーズの共同創業者で、当時最高科学責任者(CSO)を務めていたショーン・ハグバーグは話す。現在、グラクソ・スミスクラインもセットポイントも、自社の技術を公式には「電子薬」と呼ばず、開発中のインプラントを「生体電子工学医療(bioelectronic medicine)」と呼んでいる。この包括的な用語には、脳インプラント、脊椎インプラント、睡眠時無呼吸症候群用の舌下神経刺激(迷走神経内を走る運動神経がターゲット)、その他の重篤な胃疾患患者向けのものをはじめとする末梢神経系インプラントなど、幅広い介入が含まれる。
次の問題はすぐに現れた。適切な神経にどうやって狙いを定めるかという問題である。迷走神経には約10万本の繊維が緊密に詰まっているとキップ・ルドウィグは言う。ルドウィグはかつて米国立衛生研究所(NIH)に所属し、現在はウィスコンシン大学マディソン校の翻訳神経工学ウィスコンシン研究所(Wisconsin Institute for Translational Neuroengineering)で共同所長を務めている人物だ。この無数の繊維が、喉頭や下気道をはじめとする多くの臓器につながっている。また、電場は近隣の多数の繊維を避けて1本の繊維を狙えるほどの精度がない(同共同所長の言葉を借りれば、電場は「見境がない」のだ)。
これにより、繊維の束全体に一度に刺激を与えることが、長きにわたって予測できない「オンターゲット効果」と、不快な「オフターゲット効果」に関連付けられてきたことの説明になる。オンターゲット効果とは必ずしも効果を発揮しないこと、オフターゲット効果は慢性咳のような不快な症状から、頭痛や息切れ(空気飢餓感といった方がしっくりくるだろう)といった生活を一変させてしまうような症状まで、さまざまな副作用を引き起こすことを意味する。目的としている特定の臓器へとつながる繊維を選 …