高齢者の転倒も呼吸も分かる
Wi-Fiセンシング、
10年越しの実用化への道
家庭内のWi-Fi電波を使って個人の呼吸パターンや転倒などの動きを検出する「Wi-Fiセンシング」技術が標準化され、今後の普及への期待が高まっている。プライバシーの問題もはらむ中、かつてオバマ大統領にも絶賛された技術は受け入れられるか。 by Meg Duff2024.06.07
10年以上前、ニール・パトワリは病院のベッドに横たわり、慎重に呼吸のタイミングを計っていた。彼の周りには、20台の無線トランシーバーが見張りのように設置されていた。パトワリの胸が上下すると、トランシーバーの電磁波が彼の周囲に広がった。セントルイスのワシントン大学で教授を務めているパトワリは当時、この電磁波が彼の呼吸パターンを明らかにすることを実証したばかりだった。
数年後、マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者は、Wi-Fi信号を使って転倒を検知するというアイデアでスタートアップ企業を立ち上げた。高齢者が自宅でより自立した生活を送れるよう、支援することを目指す企業だ。2015年、彼らの作ったプロトタイプは米大統領執務室に持ち込まれた。デモンストレーションのため、研究者の1人がオバマ大統領の前でわざとつまずき、転倒した(オバマ大統領はこの発明を「とてもクールだ」と評した)。
インターネット通信を可能にするルーターが人の動きも検知できる可能性があるというのは、魅力的なアイデアだ。「アンビエント(環境)センシング界における北極星のような存在です」と、健康センサー・スタートアップ企業「ザンダー・カルディアン(Xandar Kardian)」のサム・ヤン最高経営責任者(CEO)は話す。しばらくの間、「投資家たちが集まってきました」とヤンCEOは振り返る。
それから10年近くが過ぎた。だが、呼吸を追跡したり転倒を検知したりできるWi-Fi機器は、まだ実用化されていない。2022年、照明会社のセングルド(Sengled)は、その両方ができると考えられるWi-Fi電球のデモンストレーションを実施したが、まだ発売には至っていない。オバマ大統領にデモンストレーションを披露したスタートアップ企業は、今では別の電波を使っている。Wi-Fiセンシング・テクノロジーの利用を目指していたアスリープ(Asleep)という呼吸モニターのスタートアップ企業も、代わりにマイクを使う方針に切り替えている。パトワリ教授自身、Wi-Fi呼吸モニターを製造する会社を起業したが、「グーグルに負けてしまいました」と話す。
個人の健康指標をモニターする方法としてのWi-Fiセンシングは、ほとんどの場合、超広帯域レーダーのような他のテクノロジーの影に追いやられてきた。しかし、Wi-Fiセンシング自体がなくなったわけではない。それどころか、大手インターネット・サービス・プロバイダーやスマートホーム企業、チップメーカーに支えられ、何百万もの家庭で密かに利用されるようになっている。Wi-Fiの持つユビキタス性により、特にネットワークが継続的に強固になるにつれて、Wi-Fiは基盤となる魅力的なプラットフォームであり続けている。まもなくWi-Fiは、より優れたアルゴリズムと、より標準化されたチップ設計の恩恵を受けることで、あらゆる種類の驚くべき(時には憂慮すべき)目的を果たすため、私たちの日々の動きを目に見えない形で監視するようになるかもしれない。
そう、「Wi-Fiで呼吸を追跡」できるかもしれないのだ。転倒を監視できる可能性もある。建物をよりスマート化し、人々がどこにいるかを追跡することでエネルギー効率を高めるかもしれない。しかし、裏を返せば、さまざまな悪質な目的で利用されてしまう可能性もある。家の外にいる誰かが住人が留守であることを確認したり、住人が家の中で何をしているかを把握したりできるかもしれない。誰かが他人の動きを密かに追跡したいと思う理由を考えてみてほしい。Wi-Fiセンシングは、そのような用途の多くを実現する可能性を秘めている。さらにこのテクノロジーは、電磁波が運ぶ暗号化されたデータではなく、電磁波そのものの物理的特性を解釈する。つまり、まだ完全な対応策がない、新しい種類のプライバシー・リスクが生まれることを意味しているのだ。
グーグルの「睡眠モニター」は「Nest Hub(ネスト・ハブ)」に内蔵されている機能だ。Wi-Fiセンシングではなくレーダー・チップを使って、このデバイスの最も近くで寝ている人の呼吸、いびき、咳を追跡する。レーダー・チップを使用している点を除けば、グーグルのアプローチは基本的にパトワリ教授のものと同じだ。まず電磁波を使って微小な動きを感知し、次に人工知能(AI)を使ってその動きを意味あるものとして解釈する。
主な違いは波長の長さだ。波長が短いほど帯域幅が広いため正確度が高く、波長が長いほど長距離の感知が可能になる。大半のWi-Fiを使用する機器が出す電波の波長は、6センチメートルか12.5センチメートルだ。Wi-Fiは広範囲をカバーできる。対照的に、グーグルのレーダーチップから出る電波の波長はわずか5ミリメートルで、Wi-Fiよりずっと多くの詳細な情報を提供できる。Wi-Fiセンシングがこれに近づくためには、複数のデバイスから出る電波がどのように相互作用するかを調べる必要がある。しかし、それができるのであれば、特別なレーダーチップやウェアラブルのような専用デバイスを必要とすることなく、詳細な情報を得ることと距離を広げることを両立できる。もしWi-Fiセンシングが電球のようなスマートデバイスのデフォルト・オプションになれば(これはすでに起こりつつある動きだ)、それらの機器で人を監視し始めることが可能となる。そして、Wi-Fiセンシング・テクノロジーが向上するにつれ、これらの機器によってさらに詳細な観察ができるようになる。
当初、「(Wi-Fiの)解像度はかなり低いものでした」とパトワリ教授は語る。位置が正確なのはわずか2メートルまでで、隣同士でおしゃべりしている2人の人物が1人に見えることもあった。研究者は過去10年間、商用ルーターが使用する長い波長からより多くの情報を引き出すことに取り組んできた。より重要なのは、AIを使用して「チャネル状態情報」として知られる、電波がどのように散乱したり減衰したりするかを表すメタデータを理解することだ。そうすることで、より多くの情報を得ることができる。16年前は、「人が通り過ぎたことをかなり確実に知ることができたでしょう」とパトワリ教授は言う。「しかし今では、歩行情報、つまり誰かの歩行パターンがどのようなものなのかを知ることができます」。Wi-Fiセンシングはより詳細なものになってきている一方で、信頼性はまだ十分とは言えない。「信号が十分にクリーンではないのです」とヤンCEOは話す。
一方、Wi-Fiセンシングの向上に役立っているAIの進歩は、レーダーの向上にも役立っている。10年前にWi-Fiセンシングを心躍るものと感じさせた用途のいくつかは、現在ではより短い波長を使用する専用のレーダー機器で商品化されている。
病院や長期介護施設で使用するレーダーを扱う「インスピレン(Inspiren)」という企業は、ベッドの上に取り付けたレーダーとカメラのデータを組み合わせて転倒を検知している。スタッフに転倒を知らせると同時に、患者がベッドから起き上がるときなど、転倒の危険性が最も高い瞬間を知らせる。ヤンCEOのセンサー企業は、病院のベッドや刑務所の独房で心拍数をモニターできる米国食品医薬品局(FDA)認可の医療機器を販売している。この機器ではウェアラブル機器は不要だ。一部はケンタッキー州の刑務所ですでに使用されており、薬物の過剰摂取やその他の医療的緊急事態を防ぐことを目的としている。
そして、もっと不気味な使い方がある。壁越しのスパイだ。パトワリ教授が2009年、このテクノロジーを使って別の部屋の動きを検知した際には、「Wi-Fi信号は壁を越えて『見る』ことができる」とメディアに報じられた。2023年1月には、この見出しの新バージョンで再び話題となった。今度は、カーネギーメロン大学の研究者が「DensePose(デンスポーズ)」と呼ばれるAIエンジンを使ってWi-Fi信号から体型を割り出したという記事だ。(正確度は完璧には程遠いものだった)。壁越しに人を感知するレーダーは何年も前から存在しており、SWATチームや国境警備隊、捜索救助隊、軍などで使われている。
だが、米国自由人権協会(ACLU)のスタッフ・テクノロジストであるダニエル・カーン・ギルモアは、国の機関によるWi-Fiセンシングを、特に活動家にとっての潜在的なプライバシー上の懸念を生むものとして指摘している。「司法当局の行き過ぎた事例は多くあります。もし司法当局がこのデータにアクセスできるようになり、人々を苦しめるために使うのなら、悪用される可能性のあるメタデータがまた1つ増えることになります」。
Wi-Fiセンシングはすでに他の動体検知ツールに取って代わりつつある。また、多くの場合で信頼性は低下するものの、現在レーダーが活用されている事例を広く利用可能にするのに役立つかもしれない。ギルモアによれば、どちらの場合でも、企業が消費者、労働者、労働組合の組織 …
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