「魔法の箱」に託す希望、 災害時の身元調査を変えたDNA鑑定技術の進歩

This grim but revolutionary DNA technology is changing how we respond to mass disasters 「魔法の箱」に託す希望、
災害時の身元調査を変えた
DNA鑑定技術の進歩

数百人が行方不明になったハワイ・マウイ島の大火災で活用された迅速DNA鑑定技術は、わずか数時間以内に犠牲者の身元を特定した。新たな科学技術が、混乱の中で家族に希望と安らぎをもたらした。 by Erika Hayasaki2024.06.13

最初の7日間

母親、父親、兄、いとこ、誰に電話しても、留守電になるばかりだった。ハワイのマウイ島は壊滅的な山火事に襲われ、現場周辺では携帯電話サービスが停止していた。しかし、レイヴン・インペリアルは、誰かが電話に出てくれることを願い続けていた。その一方で、恐ろしい考えが頭をよぎるのを抑えられなかった。もし家族が火災で死んでいたら? もし全員亡くなっていたら?

数時間経ち、そして数日が経過した。その時点でレイヴンが把握できたのは、2023年8月8日にラハイナで山火事が発生したということだけだった。ラハイナには、複数世代にわたり固い絆で結ばれたレイヴンの家族が住んでいた。しかし、現在は故郷を出て北カリフォルニアで暮らすレイヴンには、現地の状況が全く分からなかった。家族は避難しただろうか。怪我をしているのだろうか。フロント・ストリートが燃えている恐ろしい映像がネットに流れているのを、レイヴンは遠く離れた場所で見ていた。

その一方で、行方不明者は数百人に上っていた。

レイブンは、自分がどれほど怯えたか思い出す。「家族を失ったと思いました」。

レイヴンは子ども時代を、コピリ・ストリートにある4ベッドルーム・2バスルームのクリーム色の家で過ごした。その家には昔から、レイヴンの肉親だけでなく、10~12人ほどの賃借人も住んでいた。マウイ島は住宅価格がとても高いためだ。レイヴンと弟のラファエル・ジュニアが子どもの頃、父親が屋外にバスケットボールのゴールリングを設置してくれ、2人は近所の人たちとシュートを打って楽しんだ。その後、ラファエル・ジュニアの高校時代の恋人、クリスティン・マリアーノが引っ越してきた。そして2021年、この2人に息子が生まれると、その子もこの家で育てられた。

最初のニュース報道やネットの投稿からは、インペリアル家のあるパイオニア・ミル煙突の周辺地域全体が、火事で焼き尽くされてしまったようだった。パイオニア・ミル煙突は、マウイ島が砂糖農園だった時代から残る製糖工場の高さ68メートルの煙突で、1900年代中頃にフィリピンから移住してきたレイヴンの祖父もここで働いていた。

そして8月11日、やっとレイヴンの弟に電話がつながった。弟は浜辺に立って、なんとか携帯電話の電波をキャッチできたのだ。

「みんな大丈夫?」とレイヴンは尋ねた。

「いま、パパを探している」とラファエル・ジュニアは兄に話した。

火事の後の3日間で、残りの家族も少しずつお互いの元へ戻ることができた。レイヴンは、肉親のほとんどが72時間も離れ離れになっていたことを知る。ラファエル・ジュニアはラハイナからおよそ6キロメートル北のカアナパリで1人置き去りにされ、クリスティンは30キロメートル以上離れたワイルクで立ち往生していた。この若い2人の親は、クリスティンの両親と一緒に避難した息子と離れ離れになっていた。レイヴンの母エヴリンもカアナパリにいたが、ラファエル・ジュニアと同じ場所ではなかった。

しかし、ラファエル・シニアとは誰も連絡が取れていなかった。 エヴリンは火災があった日の正午頃、仕事場に向かうため家を出ていた。エヴリンがラファエル・シニアの姿を見たのは、その時が最後だった。最後に2人が話したのは、午後3時過ぎにエヴリンが電話をかけ、「仕事中?」と尋ねた時だった。ラファエル・シニアが「いや」と答えた後、突然電話が切れた。

「全員見つかりました」とレイブンは言う。「父親を除いては」。

その週のうちにレイブンは飛行機に乗り、マウイ島に戻った。必要なだけ父親を探し続けると、レイヴンは自分に言い聞かせた。

同じ週、キム・ジンもマウイ行きの飛行機に乗っていた。カリフォルニア州のサクラメント郡検視局を1年前に退職して移住したアラバマ州からは、マウイ島まで半日かかる。現在は死亡調査のコンサルタントとして独立しているジンは、ラハイナの対策チームに自分が何かを提供できると分かっていた。ジンは、全米のフォレンジック調査員の中でも、マウイ島のような大規模な山火事の直後を経験したことのある数少ない調査員の1人だった。ジンはまた、迅速DNA鑑定の使用に精通した希少な調査員の1人でもあった。迅速DNA鑑定は、多数の死傷者が発生し続けている出来事で犠牲者の身元特定に使われる新しい科学的手法で、近年その重要性がますます増している。

ジンは2001年にカリフォルニア州サクラメント郡でキャリアをスタートさせた。その17年後、145キロメートル近く北方にある同州ビュート郡が火災に襲われた時は、検視官として働いていた。ジンはそれまでにも火災調査を担当したことがあったが、シカゴ市よりも広い600平方キロメートル以上を焼いた山火事「キャンプ・ファイア(Camp Fire)」のような規模の火災は初めてだった。火災の中心地となった小さな町パラダイスは、増え続ける死者に対処する能力がなかった。ジンのオフィスには、冷蔵トラック1台と15.8メートルのセミトレーラー1台、そして数百人分の遺体を収容できる遺体安置所があった。

「火事だとは分かっていましたが、指紋や歯(の治療記録)を通してもっと身元が分かると予想していました。でも、それは甘い考えでした」とジンは言う。彼女はすぐに、見分けがつかないほど焼かれた多くの死者の名前を特定する作業は、DNAに依存するところが大きいと実感した。

「そのとき問題になったのが、従来のDNA(鑑定)は時間がかかることでした」とジンはこの分野における長年の重要課題について説明する。それは、DNA鑑定がこれまで長い間、大規模災害後の遺体の身元判定に用いられる最終手段だった理由でもある。

指紋や、歯の情報あるいは人工膝関節などと医療記録との照合など、より伝統的な本人特定の方法は長く退屈なプロセスになることもあるが、従来のDNA検査ほどは時間がかからない。

歴史的に、遺伝子鑑定のプロセスには数カ月かかることが多く、数年に及ぶことさえあった。火災のように骨や組織の劣化がひどくなる状況では、DNAの処理がさらに困難で、時間もかかる可能性がある。従来のDNA処理方法は、ヒトゲノムの30億対の塩基対を読み取り、現場で発見されたDNAサンプルと、家族のDNAサンプルを比較する必要がある。一方、調査員はサンプルを検査するために、米司法省や郡の犯罪研究所から頻繁に機材を借りなければならない。そのため、未処理の作業が積み上がってしまうこともよくある。

そうして発生する待ち時間は、家族にとって恐ろしいほど長くなる場合がある。死亡証明書、連邦政府からの援助、保険金など、「すべてが身元の特定にかかっています」とジンは言う。もちろん、愛する人が生きているのか死んでいるのか分からない状況の精神的な負担は言うまでもない。

しかし、ここ数年、気候変動によって火災などの災害に拍車がかかり、その発生頻度や規模が大きくなるにつれ、災害後の被害処理方法や犠牲者の身元特定方法も変化してきた。瓦礫や灰の調査、プラスチック片と小さな骨片の区別など、災害後の過酷な作業はなくならないが、身元特定はかつてと比べ、ほんのわずかな時間で済ませられるようになった。その結果、(身元特定は)これまでよりも迅速になり、家族の心に表面上の平和がいくらかもたらされるかもしれない。

この進歩の原動力となった重要なイノベーションが、全遺伝子情報のわずか20領域超にだけ焦点を当てるDNA鑑定手法だった。2018年のキャンプ・ファイアは、このテクノロジーが初めて大規模な本当の災害現場で使用された事例となった。またこの時、犠牲者の身元を特定するための主な方法として初めて使用された。業界大手のANDEが開発した野外向け小型デバイスにも採用されており、サーモ・フィッシャー(Thermo Fisher)が開発した他の迅速DNA鑑定手法と一緒に利用している研究室もある。最近では戦場で米軍が利用する事例や、性的暴行事件の後、および先住民族や移民の行方不明事件や殺害事件のような身元特定が困難なケースで、FBI(米国連邦捜査局)や地元警察が利用する事例が増えている。しかし、迅速DNA鑑定の利用が最も効果的なのは、間違いなく大量の死者が発生する出来事の時であると言っていいだろう。キャンプ・ファイアでは、22人の犠牲者が従来の方法で身元が特定されたが、残りの63人の犠牲者のうち62人の身元特定に迅速DNA鑑定が役に立った。 また、近年では、ハリケーンや洪水の後、およびウクライナ戦争でも利用されている。

コンサルティング会社フォレンジックエイド(ForensicAid)のフォレンジックDNA専門家であるティファニー・ロイは、犯罪現場にこのテクノロジーを導入することに懸念を抱いていると話す。犯罪現場では質の高い証拠が限られており、「DNA鑑定の訓練を受けていない」善意の調査員によってあっという間にサンプルが「使い尽くされてしまう」可能性があるという。しかし、ロイをはじめとする専門家たちは、全体として迅速DNA鑑定はこの分野にとって大きなプラスであると考えている。「間違いなく、大変革をもたらすでしょう」とサム・ヒューストン州立大学のフォレンジック科学教授、サラ・ケリガンは言う。ケリガンは、フォレンジック研究・訓練・イノベーション研究所(Institute for Forensic Research, Training, and Innovation)の所長でもある。

しかし、キャンプ・ファイアの発生後間もない頃、ジンが分かっていたのは、1000人近い人々が行方不明者としてリストアップされているということだけだった。そしてジンには、死者の身元特定を手伝う任務が割り当てられた。「大変だ」と思ったことを、ジンは思い出す。「犠牲者の家族たちは、遺体の身元が特定されるまで長い間待たなければならないでしょう。どうすればもっと早くできるでしょうか」。

探し始めた10日目

火災で壊滅した場所から40キロメートル離れたカフルイのフィリピン料理店兼レストラン「パラダイス・スーパーマート(Paradise Supermart)」の外にあるレンガ色の階段の吹き抜けに、「ラフィーおじさん」の情報を求める1枚のチラシが貼られていた。コミュニティの人々には、それがラファエル・シニアのことだと分かった。そのチラシに書かれた「MISSING Lahaina Victim(ラハイナの行方不明犠牲者)」の文字のすぐ下で、青いハワイアンシャツを着た63歳のラファエル・シニアが、唇を閉じて微笑んでいた。その右手は丸められ、親指と小指が外に向けられて、シャカ・サイン(ありがとうなどの意)の形を作っていた。

「レストランを経営していたので、誰もが父を知っていました」とレイヴンは言う。「父はラハイナのいたるところに顔を出し、誰にでもとてもフレンドリーでした」。レイヴンは、父親がどれほど懸命に働いていたか覚えている。ラファエルは3つの仕事をこなしていた。1つはビール製造会社アンハイザー・ブッシュ(Anheuser-Busch)の技術者として、町中にサービスを導入し、ビールを配達した。また、警備会社アライド・ユニバーサル(Allied Universal )の警備員としても働いた。そして、リゾート&スパのシェラトン・マウイ(Sheraton Maui)の駐車場ブース係も務めていた。同僚や友人、地元の人たちから「ミスター・アロハ」というニックネームを付けられるほど、とても多くの人たちと交流があった。

レイヴンはまた、父親がずっとカラオケ好きだったことを覚えている。カラオケでは、フランク・シナトラの『マイ・ウェイ』を歌っていたことを思い出す。「それが父の歌っていた唯一の曲です」とレイヴンは言う。「まるでリピート再生みたいに」。

自宅が全焼してしまったため、インペリアル家はキヘイでアパートを借り、そこを拠点に捜索活動をした。その賃貸アパートは、家族の1人が仕事を通じて知っていた地元の女性が所有する部屋だった。その女性は、全部で3つの家族にその部屋を提供していた。部屋は、隣り合わせに置かれたベッドと寄付品の山ですぐにいっぱいになった。

エヴリンは毎日、夫からの電話を待った。

エヴリンは、火事の前に部屋を貸していた住人の1人と話をすることができた。その人は火事の当日、ラファエル・シニアに家を離れるように頼んだことを思い出した。しかし、夫が実際にそうしたかどうかは分からなかった …

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