この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。
麻痺を持つ人たちの脊椎に電気刺激を与えて、手と腕の機能改善を助ける装置について、先日記事を書いた。この装置は決定的な治療法とは言えない。多くの場合、この装置による機能回復の度合いは比較的地味なものだった。研究に参加したある被験者は、タイピング速度が1分あたり23語から35語に向上したと語った。別の被験者は、右手でハサミを使えるようになった。3人目は、左手を使ってシートベルトを外すことができた。
この研究は、身体麻痺者の歩行を助けることに焦点を当てたもっと小規模な先行研究ほどは、メディアの注目を集めなかった。タイピングを少し速くしたり、助けを借りずに髪をポニーテールにまとめることを可能にする技術には、歩行を助ける技術のような魅力を感じないのだろう。しかし、「身体が麻痺している人が立ち上がって歩く姿は、聖書の中の出来事のようなものです」と、南カリフォルニア大学神経回復センターで所長を務めるチャールズ・リューは、かつてある記者に語っている。
だが、脊髄を損傷した人にとっては、わずかな進歩が生活の質にとても大きな影響を与える。
今回は、この技術について、そしてこの技術の恩恵を受けている人たちについて話をしよう。
2004年、自身も麻痺を負ってしまったケース・ウェスタン・リザーブ大学の教授、キム・アンダーソン=エリスマンは、脊髄損傷者600人以上を対象に調査を実施した。脊髄損傷者たちがどんなことを優先しているのかをよりよく理解したかったアンダーソン=エリスマン教授は、調査対象者に7つのそれぞれ異なる身体機能についてよく考えてもらった。手や腕を動かせることから、腸や膀胱の機能、さらには性的機能まで、あらゆる機能である。そして、回復したときに生活の質に与える影響の大きさを考えてもらって、機能を順位付けするように求めた。
歩行もそれらの機能の1つだったが、ほとんどの人は最優先とはしなかった。回答者のうち、四肢が麻痺している人々のほとんどは、手と腕の機能を最優先に挙げた。一方、下半身が麻痺している人々は、性的機能が最優先だと回答した。私は2019年にある記事を書くため、アンダーソン=エリスマン教授にインタビューした。その記事は、脊髄損傷者の歩行を助ける方法として、埋め込み型の刺激装置に取り組む研究に関するものだった。多くの人にとって「脊髄損傷で負った障害のうち、歩けないことはそれほど困難ではない部分なのです」と、アンダーソン=エリスマン教授は話してくれた。「(もし)上肢の筋力や、自分で自分の世話をする能力が十分でないとしたら、それは歩けないことよりも大きな問題です」。
当時、私が注目していた研究グループの1つが、ルイビル大学にあった。2019年に私が訪問した頃、この研究チームは埋め込み型刺激装置を利用して、脊髄を損傷した2人の歩行能力を取り戻すことに成功したことでニュースで取り上げられたばかりだった。「実験的な装置によって、麻痺を持つ男性がフットボール場4面分を歩けるようになった」と、ある見出しは大々的に伝えていた。
しかし、研究に参加した被験者の1人であるジェフ・マーキスをルイビルの自宅マンションに訪ねたとき、彼が歩けるのは研究室の中だけのことであると知った。歩くには、ほかの人たちが支える平行棒につかまり、転ばないように体を支えるハーネスを装着する必要があったのだ。たとえ自宅で特別な支援を得られるとしても、そのような器具を置くスペースはなかった。マーキスは現在、マンションの外を動き回るときと同じ方法で自宅内を動き回っている。つまり、車椅子で移動しているのだ。マーキスは自宅で立ち上がりはするが、それにも場所を取るフレームが必要になる。しかも、立つのは治療のためだけだ。「立っている間は、ほぼテレビを見ているだけです」と、マーキスは言う。
この技術が役に立たなかったと言いたいわけではない。この埋め込み型装置のおかげで、マーキスは体のバランスやスタミナ、体幹の安定度合いがいくらか改善した。「体幹の安定度合いは、ほかのすべての活動が容易になるのですが、過小評価されているように思います」と、マーキスは話してくれた。「(刺激装置を)オフにした今でも自分に残る、一番大きな効果です」。
冒頭で触れた最新の研究に私が興奮しているのは、被験者に研究室の外でも使える能力を与えたからだ。また、この刺激装置は外付け型であるため、より利用しやすく、コストも大幅に抑えられるだろう。確かに、新たにできるようになった動作は小さなものである。しかし、ある被験者が小さなボールをコップに入れる様子を見せたときに上げた、明らかに興奮した声を聞けば、このような小さな進歩が取るに足らないものとは決して言えないと理解できるだろう。最新の臨床試験に参加した被験者の1人、メラニー・リードは、先日の記者会見で次のように述べた。「脊髄損傷の治療に奇跡はありませんが、小さな進歩が人生を変えることはありえます」。
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2017年に私たちは、脳と身体を再びつなぎ合わせることで麻痺を回復させる電子機器を、ブレークスルー・テクノロジーの一つに挙げた。本誌のアントニオ・レガラード編集者がこの記事で伝えている。
ある埋め込み型の刺激装置がジョン・マンフォードの人生を変えた。彼は脊髄損傷で麻痺を負ったが、再び物体を掴めるようになったのだ。しかし、その装置を作った会社が倒産してしまい、マンフォードには装置を動かし続けるための選択肢がほとんど残されていなかった。「不自由な手足はテクノロジーによって生き返らせることができるが、基本的な市場経済によって元に戻されてしまうこともある」 と、2015年にブライアン バーグスタイン編集主幹(当時)が書いている。
2014年にコートニー・ハンフリーズが、麻痺を持つ人々を歩けるようにする技術の基礎となったネズミの研究のいくつかを取り上げている。
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