てんかんの治療法を根本から変えるか? 脳細胞移植の可能性
胚性幹細胞(ES細胞)を使った研究は誇大広告ばかりで、医療への応用はまだ確立していない。ノイロナ・セラピューティクスのてんかん治療は、幹細胞テクノロジーのブレークスルーになるかもしれない。 by Antonio Regalado2024.04.12
この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。
ジャスティン・グレイブスが初めて発作を起こしたのは、ケンタッキー州ルイビルでスキューバダイビング・ショップを経営していた時だった。誰かと話していて、突然口から出た言葉が自分の言葉でなくなったのだ。そして気を失った。それから半年後、彼は側頭葉てんかんと診断された。
グレイブスは水泳に情熱を注いでいた。高校のチームに所属し、オープンウォーター・ダイビングの資格を取得したばかりだった。しかし、17年前にてんかんと診断されてからは、そのすべてを失った。「発作を起こしたことがある人は、スキューバダイビングもできないことになっています」とグレイブスは言う。「そのせいで、夢のような仕事ができなくなりました」。
車の運転もできない。グレイブスはカリフォルニア州に移り住み、ホテルや犬舎で雑用仕事をした。バス路線上ならどこでもいい。しばらくの間、酒に溺れた。それが発作を悪化させた。
てんかんは、人を人質に取る病気だとよく言われる。
そのため、医師からラボで作られた何千ものニューロンを脳に注入する実験的治療への志願を勧められたとき、覚悟はできていた。グレイブスは現在39歳。禁酒を始めてから2年半になる。
「私は、やりますと答えましたが、その重大さを理解していなかったと思います」(グレイブス)。
ノイロナ・セラピューティックス(Neurona Therapeutics)が開発したこの治療法は、幹細胞テクノロジーのブレークスルーになりつつある。これは、ヒト胚性細胞、あるいは胚に似た状態に変換された細胞を使って、若くて健康な組織を作るという考え方だ。
幹細胞は、もっと成功しても良いはずだ。幹細胞で何でも治してくれるという怪しげな医療クリニックはたくさんあるし、それを信じる人々もたくさんいる。しかし実際には、幹細胞を治療法に変える研究プロジェクトは遅々として進んでおらず、今のところ承認された医薬品はない。
しかし、最初の5人のボランティアに対するノイロナの試験の注目に値する初期結果を見れば、それも変わるかもしれない。グレイブスを含む4人は、発作が80%以上減少したと報告している。認知機能試験でも改善が見られる。てんかん患者は物事を記憶するのに苦労するが、ボランティアの何人かは一連の写真の全体(関連性)を思い出せるようになった。
「まだ初期段階ですが、回復する可能性はあります」と元実験科学者で、ノイロナの最高経営責任者(CEO)であるコーリー・ニコラスは話す。「私はこれを、活動のバランス調整と修復と呼んでいます」。
ノイロナは、体外受精で作られたヒト胚から採取した幹細胞の供給からスタートし、「抑制性介在ニューロン」を培養する。抑制性介在ニューロンの働きは、脳の活動を抑制することにある。つまり、ギャバ(GABA:γ-アミノ酪酸)と呼ばれる化学物質を分泌することで、他の細胞に電気的な活動を抑えるよう指示するのだ。
グレイブスは昨年7月に移植を受けた。カリフォルニア大学サンディエゴ校のMRI装置に乗せられ、そこで外科医のシャローナ・ベンハイムは、画面で確認しながら、海馬にセラミックの針を刺し、数千個の抑制細胞を注入した。これらの細胞が結合を形成し始め、てんかん発作を引き起こす誤作動の波を和らげるというのが見立てだった。
ベンハイム医師によれば、これは彼女がよくしている手術とは大きく異なるものだという。通常、てんかんのひどいケースでは、発作の原因である誤作動を起こす細胞の「焦点」を見つけて破壊しようとする。側頭葉の一部を切り取ったり、レーザーを使って小さな点を破壊したりする。この種の手術は発作を永久に止めることができるが、「重大な認知的影響」が出るリスクを伴う。記憶を失ったり、視力を失うことさえあるのだ。
だからこそ、ベンハイム医師は細胞療法が根本的な進歩になると考えている。「根底にある組織を破壊することなく、患者に決定的な治療法を提供できるというコンセプトは、てんかんの治療法における大きなパラダイムシフトになる可能性があります」と言う。
ノイロナのニコラスCEOは単刀直入にこう語る。「現在の治療の水準は中世的です。脳の一部を切り取っているのですよ」。
グレイブスの場合、細胞移植は上手くいっているようだ。グレイブスは酒をやめてから、気を失うような恐ろしい「大発作」を起こしていない。しかし、サンディエゴで手術を受ける前は、1日に1回か2回の小さな発作があった。強い高揚感やデジャヴのようなものを感じたり、あるいは放心状態のボーっとした視線になったりするような出来事は、30分ほど続くこともあった。
現在、グレイブスは研究の一環として自分の発作を数えるためにつけている日誌で、ほとんどの日は「なし」に丸をつけている。
研究に参加した他の患者も劇的な変化を語っている。オレゴン州の女性、アネット・アドキンスは毎週発作を起こしていたが、昨年の報告によれば、移植後はほとんど発作がなくなったという。別の被験者の母親であるヘザー・ロンゴも、息子が発作を起こさない時期があったと語っている。ロンゴは、息子の気力が次第に回復に向かうことを期待しており、息子の記憶力、平衡感覚、認知力は改善していると語った。
しかし、生きた細胞による治療で一貫した結果を得るのは容易ではない。研究に参加したあるボランティアには改善が、少なくとも初期段階では全く見られなかった一方で、グレイブスの発作は術後すぐに収まったので、新しい細胞が変化を生み出したのかどうかは不明だ。というのも、新しい細胞がシナプスを形成し、他の細胞と結合するまでには数週間かかるからだ。
「我々が生物学をすべて本当の意味で理解しているとは思えません」とベンハイム医師は話す。
ノイロナは、原因と結果を徹底的に調べるため、より大規模な研究を計画している。ニコラスCEOによれば、試験の次の段階では30人のボランティアを登録し、その半数が「偽手術」を受ける予定だという。つまり、全員が手術着を着て、医師が頭蓋骨に穴を開けるのである。しかし、細胞を移植するのは一部だけで、残りはお芝居だ。これは、プラシーボ効果や、どういうわけか脳に針を刺すだけで何らかの効果があるという可能性を排除するためだ。
グレイブスはMITテクノロジーレビューに、細胞が自身を救ったことは確かだと話す。「他にどんな可能性がありますか? 私は他に何も変えていません」。
現在、グレイブスは自分の人生の一部を取り戻せると思えるようになってきている。また泳ぎたいと願っている。運転ができるようになれば、両親の近くに住むためにルイビルに引っ越すつもりだ。「車での長旅はずっと好きでした」とグレイブスは語る。「私の計画していたことの1つは、国を横断することでした。急ぐことなく、自分の好きなものを見るためです」。
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昨年の夏、私は25年にわたる胚性幹細胞(ES細胞)を使った研究が何をもたらしたかを調べた。答えは「誇大広告ばかりで、治療法はまだない」というものだった。
3月初め、カサンドラ・ウィリヤードは「オルガノイド」の多くの科学的利用法について書いた。この組織の塊(幹細胞から培養されることが多い)は、人間の臓器をミニチュア化したもので、薬のテストやウイルス感染の研究に便利であることが分かっている。
2023年の注目すべき若手イノベーターのリストには、幹細胞が何に成長すべきかを指示するタンパク質因子を解明しているジュリア・ジョンが入っている。
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- アントニオ・レガラード [Antonio Regalado]米国版 生物医学担当上級編集者
- MITテクノロジーレビューの生物医学担当上級編集者。テクノロジーが医学と生物学の研究をどう変化させるのか、追いかけている。2011年7月にMIT テクノロジーレビューに参画する以前は、ブラジル・サンパウロを拠点に、科学やテクノロジー、ラテンアメリカ政治について、サイエンス(Science)誌などで執筆。2000年から2009年にかけては、ウォール・ストリート・ジャーナル紙で科学記者を務め、後半は海外特派員を務めた。