自宅で巨匠の演奏を、スタインウェイ新技術が拓く未来の音楽体験
グランドピアノのメーカーであるスタインウェイが開発した自動演奏技術は、目前で名ピアニストの生演奏を聴いているかのような体験ができる。 by Seth Mnookin2024.02.29
パトリック・エリシャはボストン郊外のスタインウェイ・アンド・サンズ・ピアノのショールームで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の冒頭小節を弾き始めた。 同社のグランドピアノが世界各地のコンサートホールで絶賛される理由を実証するためだ。
スタインウェイのピアノは細心の注意を払って作られる楽器だ。職人たちが250人年かけて、グランドピアノ1台あたり1万2000個の部品を組み立てている。手作業で曲げたリム(ロックメイプルを十数層重ね、それぞれを熱してグランドピアノの古典的な曲線を出すよう成形されたもの)から、ピアノの動作に使われる小さなフェルトローラー(個々の音に必要な圧力を生じさせるのに必要)に至るまでの全部品は、同協奏曲の冒頭を飾るピアニッシモの鐘の音から、次の8小節で深淵から湧き上がるように轟くフォルティッシモの和音まで、明瞭に響く音色を生み出すために作られている。
世界最古のスタインウェイ・ディーラー「Mスタイナート・アンド・サンズ(M. Steinert & Sons)」の教育部門を統括するエリシャは、受賞歴のあるピアニストであり、作曲家でもある。しかし私は、たとえばラン・ランのような名ピアニストが、ディズニー映画『ミラベルと魔法だらけの家』に登場するリン=マヌエル・ミランダのヒット曲「秘密のブルーノ(We Don’t Talk About Bruno)」を、スタインウェイのピアノでどう弾きこなすのかを聴いてみたかった。
しかし、何の問題もなかった。エリシャは傍らにあるワイドスクリーンテレビで、ニューヨークのスタインウェイ・ホールで演奏するランの映像を呼び出したのだ。エリシャが映像再生ボタンを押すと、ランが演奏した全ての曲が私の目の前にあるピアノで完璧に再現された。「秘密のブルーノ」の映像で、ランの右手が鍵盤の上を飛ぶように動き、冒頭の華やかな音を奏でた時、私が立っていた部屋のピアノの鍵盤は全く同じ速度と長さで押されていた。
真の「ロスレス録音」を聴いたのは、これが初めてだった。スタインウェイの「スピリオ(SPIRIO)」は、音響的には、存命の最も高名なピアニストの一人のプライベート・コンサートに匹敵する音色を聴かせてくれた。このモデルは、「自動ピアノ」を完全に現代風にアレンジしたものだ。自動ピアノとは、20世紀初頭に流行した、穴を開けたロール紙を用いて特定の曲を演奏する装置であり、ピアニストは必要ない。
昨年販売された新品のスタインウェイの約半数には「SPIRIO」テクノロジーが搭載され、すでに15万ドルだった価格に2万9000~4万8000ドルが上乗せされた。「SPIRIO」ラインの最新モデルは「SPIRIO | r」で、録音、編集、再生テクノロジーが搭載されている。新曲を練習中のピアニストは、曲を演奏してそのパフォーマンスを録音すると、ピアノが忠実に再現するのを目の当たりにできる。これにより、オーディオ録音だけでは判別しにくいタイミングや音色のニュアンスを知ることができるのだ。
2015年に発売されたSPIRIOは、すでに歴史上最も精巧な楽器だったスタインウェイのピアノに、全く新しいエンジニアリングの挑戦を追加した。スタインウェイはSPIRIOの市場投入前に、エリシャが言うように、これが「寄生的な技術」ではないと保証する必要があった。つまり、圧力センサーなど、演奏者と楽器の間に摩擦を引き起こす技術を追加することは許されなかった。感触が変わると、スタインウェイをスタインウェイたらしめているものが破壊されてしまうからだ。
その代わり、鍵盤の後ろに取り付けた数十個のグレースケール光学センサーで演奏を記録し、88ある鍵盤のいずれかが押されるたびにハンマーがピアノ線を叩く速度を計算している(センサー感度は1020段階で、1秒あたり 800回の測定が可能だ)。ピアノ下にある別のセンサーセットは、ダンパーペダルを測定している。鍵盤とペダルの再生は、どちらもソレノイドの可動鉄芯(プランジャー)によって制御されている。
「SPIRIO」には専用のiPadが付属している。「SPIRIO | r」では何度かのスワイプ操作で、ほぼ無限に演奏を編集できる。個々の音から和音全体まで、全ての音を消去したり移調させたり、長くしたり短くしたり、大きくしたり小さくしたりといった編集が可能だ。想像したような音を再生し、聴くことができる。
しかし、「SPIRIO」を他にない楽器たらしめているのは、「SPIRIO」ライブラリである。現在4000以上の録音と100以上のビデオが収蔵されており、常に更新されている。演奏の大半はライブ収録されたものだが、スタインウェイではアーカイブ音源を再現するための音楽学者も雇っている(1分間のアーカイブ音楽をプログラミングするには、通常40~60時間かかるという)。セロニアス・モンクは私が9歳のときに亡くなったが、SPIRIOのおかげで、私が生まれる前に彼がパリのテレビスタジオで自分の名を冠した曲「セロニアス」を演奏した音色を、「一緒に部屋にいたらこう聞こえただろう」という音で聴くことができた。それはまるで魔法のようだった。
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筆者のセス・ムヌーキンは元音楽評論家で、マサチューセッツ工科大学(MIT)の科学ジャーナリズム修士課程長。
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