「体操にイノベーションを」
日本発のAI採点システムは
競技の何を変えたのか?
完璧な開脚、美しいアーチ、そして観客を魅了する表現力。体操競技の審判は、一瞬の動きを見逃さず、芸術性まで評価する難しい仕事だ。そんな複雑な判断の一部を、富士通が開発したAIシステムが支援している。パリ五輪が間近に迫る中、日本発のイノベーションは体操競技をどのように変えたのか。 by Jessica Taylor Price2024.07.18
- この記事の3つのポイント
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- 体操競技にAIを用いた審判支援システムが導入された
- システムは公平性と透明性の向上に寄与すると期待されている
- 一方で主観的要素を排除することへの懸念も
オリンピックの個人出場枠は残り1つだった。大会の出場枠獲得者を決める複雑な一連のルールによれば、最後の出場者は鉄棒の決勝で2人のうちどちらが高い順位になるかで決まることになっていた。争っていたのは、クロアチアのティン・スルビッチと、ブラジルのアルトゥール・ノリー・マリアーノだった。
2人は、昨年10月にベルギーのアントワープで開催された2023年世界体操競技選手権に出場していた。最初に演技をしたのはマリアーノだった。マリアーノはルーティン中に落下し、スルビッチに若干の余裕が生まれた。しかし、スルビッチに余裕は必要なかった。トカチェフを含む連続技と、伸身の2回ひねり2回宙返りを完璧な着地で決め、ミスなくルーティンを終えたスルビッチは、両拳を空中に突き上げて喜んだ。彼は2024年パリ五輪の出場権を獲得したはずだった。
しかし、14.500という得点が出たとき、スルビッチは審判がミスをしたのだと思った。その得点では、世界選手権のメダルを逃す可能性がある。スルビッチは、異議申し立てをするかどうか、決断する必要があった。
「採点の問い合わせをするにしても、そもそも審判がどのような判定をしたのか、明確にはわかりません。最善の推測をするしかないのです」。カナダ出身のエリート体操コーチ、デービッド・キクチは言う。「レビューの結果、得点が下がるリスクもあります」。
この時は新たなリスク要素があったものの、スルビッチは賭けに出た。すると、スルビッチが実際にすべての技を成功させたかどうかを判定したのは、通常の審判員ではなかったことが明らかになった。判定したのは人工知能(AI)だったのだ。
この大会の他のすべてのルーティンと同様に、スルビッチのルーティンは数台の高解像度カメラで撮影され、それらの画像から体の動きを再現する3次元映像が作られていた。そしてその映像は、人間の目の能力を超える詳細さでそれぞれの角度や動きを分析できる、AIソフトウェアへと送られていた。
正式には「ジャッジング・サポート・システム(JSS)」と呼ばれるこのテクノロジーが、体操競技のすべての種目で使用されたのは、この大会が初めてだった。また、オリンピック出場という選手の夢を左右することになるかもしれない大会での、初めての使用でもあった。このAI判定システムは人間の審判員に取って代わるものではなく、採点の問い合わせが出た場合や、審判と競技監督者の判定が食い違う「ブロックスコア」の場合に、審判員がルーティンを見直すための補助として使用できるものだった。しかしそれでも、AI判定システムの導入は長年の取り組みの成果であり、体操競技にとって重大な分岐点となった。国際体操連盟(フランス語の頭文字をとってFIGと呼ばれる)は、2019年の世界選手権で、あん馬、つり輪、跳馬の審判に初めてJSSを使用した。その後、毎年さまざまな大会で使用例を増やしている。
競技大会にこのようなテクノロジーを用いることには、明確な利点がある。人間の体操審判員は、つま先の位置、足が開かれた角度(180度まで開いたか?)、腰のわずかな曲がりなど、小さなすばやい動きを見極める目を持っていなければならない。AIは、こうした細かい専門的な判定から当て推量を取り除くのに役立つ可能性がある。住宅ローンの審査や企業の採用活動など他の分野ではAIにバイアスが残り続けることが示されているにもかかわらず、JSSの支持者たちは、体操の審判ではAIの導入によってバイアスを排除でき、観戦する人たちにとっても選手自身にとっても、より公正で透明性のある競技になると確信している。
「競技中、審判は五分五分の判定を多数する必要があります」と話すのは、FIGのスティーブ・ブッチャーだ。ブッチャーは過去にFIGのスポーツ・ディレクターを務めており、現在はこのAI判定システムを開発した富士通の要素認識ワーキンググループのトップを務める。「オリンピックや世界選手権など、何か重大なことを左右する大会では、誰も間違った判定をしたくありません」。
同時に、AIの判定によって、体操から何か特別なものが奪われてしまうのではないかと危惧する声もある。体操は、飛び込みや馬術と同様に主観的な競技であり、国籍や体型、審判席の位置、そして曖昧な概念である「芸術性」や「演技の出来」といった要素が得点に影響する。そこにナラティブ(物語)が生まれる余地があり、審判員が一定の役割を果たしている。だが、テクノロジーがそれを排除してしまう可能性がある。ナディア・コマネチが1976年のオリンピックで初めて出した「パーフェクト」の10点は、完璧ではなかったことを考えてみよう。コマネチは着地の際、すり足になっている。しかし、独創性のある審判のおかげで、彼女のルーティンは体操史に残るものとなった。 コマネチがこの競技に持ち込んだ、言葉では言い表せない魅力の賜物である。
「体操競技には少々の主観が必要です」。フィンランド出身のエリート体操コーチ、キム・タンスカネンは言う。「それがすべて取り除かれれば、私にとって、この競技の楽しさや興奮が奪われてしまいます」。
良くも悪くも、AIは体操界に正式に導入された。問題は、それによって本当に公平さが増したかどうかである。
「体操にイノベーションをもたらす時が来た」
ジャッジング・サポート・システム(JSS)は冗談から始まった。
2015年、日本体操協会を率いる渡邊守成は、アジア人初となるFIG第9代会長に選出されようとしていた。当時、渡邊は、東京に本社を置くテック企業の富士通でスポーツ事業開発部長を務める藤原秀則と会話した際に、近い将来にロボットが体操競技の審判をするようになるだろうと冗談を言った。
しかし藤原は、それを宿題として引き受けた。「それでプロジェクトを始めたのです」と、藤原は言う。「試作品のシステムを開発し、渡邊さんに見せました」。
渡邊は驚いたが、感銘も受けた。渡邊はすぐにAI判定システムの支持者となり、2016年10月にFIG会長就任のスピーチで、「体操にイノベーションをもたらす時が来ました」と述べた。
10年以上にわたり、体操競技の審判員はビデオレビューを使って採点の問い合わせに対処してきた。しかしそれでも、人間の目では捉えられないミスを捉えることができるシステムが必要だった。人間の審判は、開脚が必要最低限の角度より1~2度足りない場合や、終末技の軸が3~4度ずれている場合など、得点を左右する小さなミスを見逃すことがある。自身の会長就任と同時期に起こった不正採点による審判員への制 …
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