この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。
脳疾患の治療法はどれも、治療する標的への到達が難しいという共通の問題を抱えている。脳内に張り巡らされた血管の内壁には、細胞がぎっしりと詰まった特殊な層があり、非常に小さな分子しか通さない。この「血液脳関門」は、毒素などの有害物質から脳を保護するため「防御機構の役割を果たしている」と、イェール大学医学部で教授を務める分子生物学者アン・アイヒマンは説明する。血液脳関門は、有害物質と同じようにほとんどの薬の侵入も妨げる。研究者たちはこれまで何十年もの間、血液脳関門をすり抜ける薬物を作る手法を研究してきた。そして、その多大な努力がようやく報われつつある。
ウェストバージニア大学ロックフェラー神経科学研究所の研究チームが1月4日に発表した論文によると、集束超音波を使って血液脳関門を開くことで、アルツハイマー病の新しい治療薬の送達効率が改善され、アルツハイマー病患者の認知・記憶障害の一因と考えられており、血管の内壁に蓄積するプラークの除去速度が32%アップしたという。
今回の記事では、血液脳関門の防御機構を回避するために研究者が取り組んでいるさまざまな手法を紹介する。
このウェストバージニア大学の研究では、軽度アルツハイマー病の患者3人に、人工抗体「アデュカヌマブ」を毎月静脈注射した。アデュカヌマブは2021年に初めて米国で承認された。アルツハイマー病患者の脳内に蓄積するタンパク質の断片である、アミロイドβの除去に役立つ(アデュカヌマブの承認には賛否両論があった。現在も、実際にアルツハイマー病の進行を遅らせるかどうかは明らかになっていない)。
研究チームは、患者にアデュカヌマブを静脈注射した後、脳の特定部位に集束超音波を照射した。照射したのは脳の片側のみであり、脳の残り半分を対照試験に使った。PET検査の結果、超音波を照射した部位のアミロイドβの沈着物(プラーク)は、照射していない側の同じ部位よりも大幅に減少していた。このことから、照射された側の脳により多くの抗体が届いたと考えられる。
超音波を使わずとも、アデュカヌマブはプラークを除去するが、長い時間がかかる。おそらくアデュカヌマブが脳内に入り込みにくいということがその一因だ。「18〜24カ月の間アデュカヌマブを静脈注射してプラークの減少を確認するのではなく、数カ月でプラークの減少できないか確かめたいと考えています」と、ウェストバージニア大学ロックフェラー神経科学研究所の所長を務める脳神経外科医で、今回の研究論文の著者であるアリ・リザイは語っている。このプラーク除去に必要な時間を短縮できれば、アルツハイマー病の特徴である記憶障害や認知障害の進行を遅らせるのに役立つかもしれない。
超音波をターゲットに収束させて照射するこの装置を開発したのは、イスラエルのハイファに本拠地を置くインサイテックだ。磁気共鳴画像(MRI)装置と、超音波発生装置がいくつも並べられたヘルメットで構成されている。現在のところこの装置は、脳の標的部位を壊死させることで、パーキンソン病患者のふるえを止めるのに役立てるという用途で米国食品医薬品局の認可を取得している。
この装置を使って血液脳関門を開くために、「マイクロバブルを静脈投与します」とリザイ所長は説明する。この微小な気泡は、一般に造影剤としてよく使われるものであり、血流内を移動する。MRIを利用することで、研究チームは脳の特定部位に「ミリ単位の精度で」超音波を当てることができるとリザイ所長は説明する。超音波がマイクロバブルに当たると膨張と収縮を繰り返し、脳の毛細血管内部にびっしりと詰まった細胞のすき間を物理的に押し広げる。「この一時的な開口は最大で48時間続きます。つまり、その間は治療薬が脳へ浸透しやすくなるのです」とリザイ所長は説明している。
集束超音波は、血液脳関門を開ける方法として長年研究されてきた(このテクノロジーについてははるか昔の2006年に記事を掲載している)。ただし、集束超音波がアルツハイマー病治療に取り入れられ、人間を対象とした試験が実施されたのは今回が初めてだ。
今回の概念実証研究は規模が小さすぎて効能の確認にはならなかったが、リザイ所長の研究チームは今後も研究を続ける予定だ。次のステップでは、新しい抗アミロイドβ抗体薬「レカネマブ」を使って、5人の患者を対象に同じ試験を繰り返す。レカネマブはプラークを除去するだけでない。ある研究では、アルツハイマー病の初期症状がみられる患者に、レカネマブを18カ月間の投与したところ、病気の進行を約30%抑制できたと示されている。これは大きな数値に見えないかもしれないが、失敗を繰り返してきたこの分野では大きな成功なのだ。
イェール大学医学部のアイヒマン教授も血液脳関門をすり抜ける研究に取り組んでおり、今回の集束超音波を使った研究はとても興味深いと語っている。しかし、この手法が長期的にどのような影響を及ぼすのかという点については疑問を抱いている。「長期にわたって繰り返し使ううちに、血液脳関門がダメージを受ける可能性があります。その点は今後の研究で明らかになるでしょう」。
血液脳関門の開放には、ほかにも有望な方法がある。スイスの製薬大手であるロシュは、機械的に押し広げるのではなく、薬物を血管壁に並ぶ細胞の受容体に結合させることで血液脳関門を通過させるテクノロジー「ブレインシャトル」を開発した。
ロシュはブレインシャトルと同社の抗アミロイド抗体「ガンテネルマブ」を組み合わせて、44人のアルツハイマー病患者を対象に試験した。10月に開催された学術会議で、試験初期の結果を発表した。その結果を見ると、最高用量を使った場合に4人中3人のプラークを完全に除去できたとある。サンフランシスコに拠点を置くバイオテクノロジー企業であるデナリ・セラピューティクスも、パーキンソン病やその他の神経変性疾患への治療法として、同様の手法を研究している。
アイヒマン教授は別の方法に取り組んでいる。彼女の研究チームは、血液脳関門を健全性に保つ上で重要になる受容体に結合する抗体を試している。その受容体を遮断することで、少なくとも実験用マウスでは、細胞間の結合を一時的に緩めることができる。
ほかの研究グループは、別の受容体を標的にしたり、さまざまなウイルスベクターを試したり、脳に送り込むことができるナノ粒子を開発したりしている。
このような方法にはそれぞれ異なる利点と欠点があり、どれが最も安全で効果的なのかはまだ明らかでない。しかし、アイヒマン教授は今後数年のうちにいずれかの方法が承認されるであろうと考えており、「間違いなく近づいています」と語っている。
血液脳関門を開く手法は、アルツハイマー病だけでなく、パーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、脳腫瘍など、さまざまな病気の治療に役立つかもしれない。「多種多様な、そして潜在的な可能性を開いてくれます」とリザイ所長は考えている。「今はとても楽しみな時期です」。
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アルツハイマー病の医薬品開発はつい最近まで、失敗ばかりを繰り返す、先行きの暗いものだった。本誌のエミリー・マリン編集者(当時)は2017年に、複数の抗アミロイド薬の治験が失敗したことで、アミロイドが本当にアルツハイマー病の原因なのかと疑問を抱く研究者が増えたことに着目した記事をまとめた。