超越性から優位性、有用性へ:量子コンピューティング、 静かなる革命の足音

Quantum computing is taking on its biggest challenge: noise 超越性から優位性、有用性へ
量子コンピューティング、
静かなる革命の足音

量子計算にエラーを生じさせる「ノイズ」は、量子コンピューター実用化の最大の障壁とされている。だが、ノイズの影響によるエラーを制御する研究が進んでおり、実用化の時期は近づきつつある。 by Michael Brooks2024.08.11

この20年間で、グーグル、マイクロソフト、IBMといった大手をはじめ、数百の企業が量子コンピューティングの確立に向けて開発を急ピッチで進めてきた。これまでに投資家は、50億ドルを遥かに超える額を投資している。目的はただ1つ。世界に次なる「大ブーム」を巻き起こすことだ。

量子コンピューティングとは、原子や素粒子レベルで物質を規定している「直感に反したルール」を用いて、従来の、あるいは「古典的」なコンピューターには不可能な方法で情報を処理する。専門家は、このテクノロジーが創薬、暗号、金融、サプライチェーンのロジスティクスなど実にさまざまな分野に影響を与えるのではないかと見ている。

そうした確かな見込みはあるものの、過剰な宣伝文句が飛び交っているのも事実だ。たとえば2022年には、バンク・オブ・アメリカ(Bank of America)の研究部門統括責任者であるハイム・イスラエルが、量子コンピューティングは「火をも超える、人類がこれまで目の当たりにしてきたどの革命よりも大きなものになる」と宣言している。科学者の間でもさまざまな主張や苛烈な反論が飛び交っており、評価するのが難しい分野となっている。

だが突き詰めれば、実用的な量子コンピューターの構築の進捗を評価する際には、「ノイズに対処できるかどうか」という1つの核となるファクターに行き着く。繊細な性質を持つ量子システムは、熱によって発生したはぐれ光子、周囲の電子機器からのランダムな信号、物理的な振動など、ほんのわずかな混乱に対しても極めて脆弱だ。このノイズが大混乱をもたらし、エラーを起こすだけでなく即座に量子計算を止めてしまうこともある。どれだけプロセッサーが大きかろうと、それがどんなキラー・アプリケーションであろうとも、ノイズを制御できなければ意味がない。その点をクリアしなければ、量子コンピューターが古典的なコンピューターを超えることは決して無いのである。

研究者は長年にわたり、少なくとも短期的にはノイズ混じりの回路で間に合わせなければならないと考えてきた。そして多くの研究者が、その限定的な性能の中で何か実用的なことができそうなアプリケーションを探し求めた。このアプリ探しは特に実りあるものにはならなかったが、それももはや重要ではなくなったのかもしれない。この数年で起こってきた理論と実験におけるブレークスルーにより、研究者たちはノイズ問題の解決がついに迫っていると言えるようになった。ハードウェア戦略とソフトウェア戦略のコンビネーションは、量子エラーの抑制、緩和、クリーンアップへの明るい見通しを示している。それは特に洗練されたアプローチではないが、成功しそうに見える。また、それが誰も予想していなかったほどの早さで実現するかもしれないのだ。

「楽観主義を裏付けるようなエビデンスが非常に増えています」。英国ケンブリッジに拠点を置く量子コンピューティング企業、リバーレーン(Riverlane)の量子科学部門担当副社長を務めるアール・キャンベルはそう話す。

筋金入りの懐疑派たちでさえ納得し始めている。たとえば、コンピュテーション(計算)へのノイズの影響を研究している、ヘルシンキ大学のサブリナ・マニスカルコ教授だ。同教授は10年前、量子コンピューティングはうまくいかないと切り捨てていた。「根本的な問題があると考えていました。解決策が見つかるのか、確信が持てなかったのです」。だが、今や同教授は、量子システムを用いて光感受性抗がん剤の改良版の設計に取り組んでいる。この抗がん剤は低濃度で効果を発揮し、より害の少ない光で活性化させることができる。彼女はこのプロジェクトがあと2年半ほどで完成すると考えている。マニスカルコ教授は、「量子有用性(quantum utility)」の時代、すなわち、特定のタスクにおいて、古典的なプロセッサーではなく量子プロセッサーを利用するほうが理にかなっているとされるようになる時代の到来がすぐそこに迫っていると考えており、「まもなく量子有用性の時代に突入するという強い確信があります」と話す。

キュービットをクラウドへ

このブレークスルーの前には、10年以上にわたる失望があった。2000年代後半から2010年代前半にかけて、研究者たちは量子コンピューターを実際に構築し実行するにあたって、理論家たちが期待していたよりもはるかに多くの問題があることを知った。

それは乗り越えられない問題だと考えた者もいた。だが、ジェイ・ガンベッタ博士をはじめとする人々は動じなかった。

物静かな口調のオーストラリア人であるガンベッタ博士は、オーストラリアのゴールドコーストにあるグリフィス大学で博士号を取った。彼がグリフィス大学を選んだのには、熱中していたサーフィンへの飢えを満たせるから、という理由もあった。だが2004年7月、一念発起したガンベッタ博士はイェール大学で光の量子特性を研究するため、北半球へと向かった。3年後(その頃には彼は、ニューヘブン近郊の冷たい海のおかげでサーファーをやめていた)、ガンベッタ博士はさらに北へと向かい、カナダのオンタリオにあるウォータールー大学に移った。そのとき、IBMが量子コンピューティングにもう少し実践的に取り組みたいと考えていることを知り、2011年にIBMの新規採用者の1人となった。

IBMの量子エンジニアは、古典的なコンピューターのバイナリー・ディジット(ビット)の量子バージョン開発に精力的に取り組んでいた。古典的なコンピューターにおけるビットは電気スイッチで、2つの状態が0と1で表される。量子コンピューターの中で起こていることは、それよりも曖昧だ。ノイズから隔離された量子ビット(キュービット)は、2つのあり得る状態の確率的組み合わせの中に存在する。コイントスの途中で空中に浮いている状態のコインに似ていると言えるかもしれない。キュービットがこうした性質を備えていること、他のキュービットと「もつれ(エンタングルメント)」が発生する可能性があることは、量子コンピューティングの革命的可能性の鍵である。

入社から1年後、ガンベッタ博士はIBMのキュービットが抱える問題を発見した。その問題とは、IBMのチームがうまくやっていると知れ渡っていたことである。学会で物理学者仲間に会うたびに、ガンベッタ博士は最新のアイデアをIBMのキュービットで試してみてほしいと頼まれた。数年のうちに、ガンベッタ博士はリクエストの量に尻込みするようになった。「こんなことは異常だと思うようになりました。なんで自分たちが物理学者のために実験しなければならないのかと」。彼は当時をそう振り返る。

ガンベッタ博士は、物理学者たちがIBMのキュービットを自分たちで、すなわちクラウド・コンピューティング経由で使えるようにすれば、もっと楽になれるかもしれないと考えた。上司にそのことを話すと、2014年後半の会合で、IBMの幹部にアイデアを売り込むための時間を5分間もらえることになった。幹部たちからの唯一の質問は、ガンベッタ博士にそれを成功させる自信があるのかということだけだった。「自信はあると答えました。そんなに難しくはないだろうと思っていたのです」。

だが、実際は非常に難しい挑戦になった。IBM幹部はガンベッタ博士に、手早く終わらせるよう命じたからだ。「2年は欲しかった」。だが、実際に与えられた期限は1年だった。

気が重くなるような挑戦だった。当時のガンベッタ博士は、クラウドが何なのかもほとんど知らなかった。幸い同僚の中にはクラウドを理解している者もいたため、夜間や週末にマシンを調整したい場合に役立つリモートアクセス・プロトコルをアップグレードし、世界のどこからでもアクセスできる一連のインターフェイスを開発できた。2016年5月4日深夜、5キュービットで構成された世界初のクラウドアクセス型量子コンピューターが公開された。この …

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