「量子コンピューターを最初に言い出した物理学者、リチャード・P・ファインマン(カリフォルニア工科大学教授、1988年没)が有名な言葉を残しています。『量子力学が“わかった”と思っているうちは、まだわかっていない』 この言葉に我々はたいへん救われています。もちろん、学生相手の授業では、そんなことはおくびにも出しませんが」
3月13日に開催されたMITテクノロジーレビュー主催のイベント「MITTR Emerging Technology Conference #2」の講演で、東京工業大学の西森秀稔教授(物理学)は、そういって会場の笑いを誘った。
講演のテーマは「量子アニーリングによる量子コンピューター」。西森教授は、世界で唯一商用化されているD-Waveシステムズの量子コンピューターの原理「量子アニーリング方式」の提唱者のひとりだ。
量子コンピューターに対する期待の背景
MIT Technology Reviewは、前年に最も飛躍したテクノロジーを「ブレークスルー・テクノロジー10」として、毎年2月に発表している。ここ5年ほどは毎回、量子コンピューティングが候補として挙がりながら、選出は見送られ続けてきた。それが2017年に「実用的な量子コンピューティング」として選ばれたのだ。
この1、2年で量子コンピューターが注目される背景には主にふたつの理由がある、と西森教授はいう。
「ひとつは、ムーアの法則がそろそろ終焉に近づいていることです。プロセッサーの性能を測る多くの指標が、7、8年前から頭打ちになっています。現在の形のコンピュータでは、計算の速さの限界に近づいているのです。もうひとつは、消費電力の問題。D-Waveの量子コンピューターは超伝導技術を使っており、かつ非常に小さな装置です。超伝導を起こすために、チップを15ミリケルビンという絶対零度に近い温度にまで冷却する必要がありますが、計算能力に対して使う電力は、現在のコンピュータに比べてかなり小さくて済むのです」
RSA暗号は破られない
量子コンピューターの作り方には、大きく分けてふたつの方式がある。
1980年代の初め頃から研究が続けられてきたのが、「ゲート方式」で量子コンピューターの本流ともいえる。「ゲート方式こそが真の量子コンピューターだ」という人もいる。これに対し、1998年に西森教授らが提唱したのは「量子アニーリング方式」だ。
ゲート方式と量子アニーリングは、その原理も、できること、できないことも大きく異なり「混同すると混乱を招く」と西森教授はいう。
「ゲート方式は、現在のコンピューターの上位互換と理解していいでしょう。汎用性があり、原理としては何でもできます。ただその中でも、いまのコンピューターより劇的に速く処理できるアルゴリズムは限られています。代表的なのは素因数分解や量子シミュレーション、機械学習などです。こうした処理を高速化できることが“数学的に証明されている”のがゲート方式の強みです」
一番よく知られている例は暗号解析だろう。現在、インターネット使われているRSA暗号は、桁の大きな数の素因数分解が難しいことを安全性の根拠としている。だが、ゲート方式の量子コンピューターでShorというアルゴリズムというアルゴリズムを使うと、素因数分解を劇的に高速計算し、RSA暗号を破れることが、数学的に証明されている。
「でも、それはあくまで理論上の話です。ゲート方式には、電波や電磁波、物理的な振動や熱などのノイズに弱く、容易に壊れてしまう弱点があり、実際に作るのは非常に難しいのです。ゲート方式で扱えるのは現状では10量子ビット程度。少なくとも10年スケールで、RSA暗号を破るまでの実用化は難しいでしょう」
量子アニーリングは、最適化問題・サンプリング用の計算原理
一方、量子アニーリング方式では、すでに2000量子ビットのシステムをD-Waveが実現している。また、ノイズに強いのも特徴だ。ただし、汎用性はない。用途は「組み合わせ最適化問題」と「サンプリング」にほぼ限定される。
「最適化問題は、たとえば、電車の乗り換え案内など、実は私たちの日常生活に関わる部分が大きいです。A地点からB地点まで行くには、たくさんの経路があって、その中でどれを選ぶと移動距離が一番短いか、一番安い値段で行けるか、最も歩かなくて済むか。すべての組み合わせの中から最適な解を導き出すには膨大な計算が必要ですが、それを速く解くアルゴリズムが開発されると、私たちにとって便利になるケースは多々あるでしょう」
この他にも、NASAを中心とする研究者が取り組む高精細衛星画像解析で農業や自然環境保全に役立つだろうし、金融界が投資ポートフォリオの最適化に使えることで量子コンピューターに高い関心を持っている件などを西森教授が説明した。
いわゆる人工知能、機械学習で非常に重要な役割を果たす問題を速く解ける可能性がでてきたことも、現在、量子アニーリングが注目されている背景だ。
量子コンピューターを動かすソフトウェアの開発も進む
数学的に証明されているアルゴリズムを使うゲート方式に対し、量子アニーリングには理論的な保証がない。そのため「量子アニーリングは役に立たない」と指摘する専門家も多い、と西森教授はいう。
「証明がないからといって役に立たないわけではなく、“わからない”のが正直なところです。ただ、実際に量子アニーリングで計算が劇的に速くなる問題が確かにあるのです。速く解ける問題の種類は何か、それはどういうメカニズムで速くなっているのか、問題の範囲を拡張できないかなどが、いま量子アニーリングでホットなトピックです。ダメだダメだという前に、とにかく実際の量子コンピューターがあるのだから使ってみよう、面白いからやってみよう、というのが私たち研究者の立場です」
ハードウェアばかりが注目される量子コンピューターだが、それを動かすソフトウェアもD-Waveシステムズを中心に立ち上がったエコシステムにあるベンチャー企業で開発が進んでいる。量子アニーリングの原理や量子力学を全く知らなくても、普通のコンピューターを使うのと同じように、C/C++やMATLAB、Pythonなどでプログラムを書けるシステムができつつある。D-Waveは量子コンピューターのデファクト・スタンダードを握ろうとしているのだ。
グーグルも「世界最大の量子データセンター」を構築すると宣言し、自社の量子人工知能研究所で、ゲート方式と量子アニーリングの両方の研究開発を進めている。従来のコンピューターと量子コンピューターのハイブリッドシステムを構築し、既存のサーバーでは時間がかかりすぎる問題を自動的に切り出して量子コンピューターに渡し、計算結果をまた既存のサーバーに戻す、といった仕組みを構築しているという。
研究者の立場と、ビジネスの立場では、量子コンピューターに対する見方は異なる。その一端として、西森教授は「量子コンピューター全般に対するグーグルの見解」の一部を示した。
「デジタル時代においては、技術革新は指数関数的なインパクトがあります。すなわち、1%でも競合他社より高品質な製品を提供できる企業は、顧客数や収益において圧倒的な優位に立てるのです。初期の量子コンピューターが、既存のコンピューターを少しでも上回る計算能力を実現すれば、その利益は開発者が独占することになります」
北米を中心に、中国や欧州の研究者が、実用レベルの量子コンピューターの研究を進めている。西森教授は「日本には共同研究する人がいなくて、私が頑張っても全部アメリカの成果になってしまうことに、ある意味フラストレーションを感じています。そして、世界中から研究者が集まるアメリカでも、日本人研究者は限りなくゼロに近い」と、日本の現状を憂えた。