遠藤 傑:量子コンピューター実用化を「誤り抑制」で早める理論家
NTTコンピュータ&データサイエンス研究所の遠藤 傑は量子エラー抑制法の理論の中に自然法則の美しさを見いだしながら、実用的な量子コンピューターの早期実現に向けて研究を続ける。 by Yasuhiro Hatabe2024.01.19
人工知能(AI)の性能を飛躍的に向上させたり、大規模な化学シミュレーションを高速に実行して新材料や新薬の候補を見つけ出したりと、量子コンピューターはさまざまな用途での活用が期待されている。だが、量子コンピューターは非常にデリケートであり、外界の熱や磁場などのノイズに起因する計算エラー(誤り)が生じやすい。実用化にはこのエラーの問題を乗り越える必要がある。
NTTコンピュータ&データサイエンス研究所の遠藤 傑は、現在主流となっている「NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum Computer、ノイズがある中規模量子コンピューター)」に対する実用的な量子エラー抑制法を世界で初めて確立。2021年の「Innovators Under 35 Japan (35歳未満のイノベーター)」の1人に選ばれた。
量子コンピューターの実用化に欠かせないエラー削減
量子コンピューターのエラーの問題を解決する方法としては、量子エラー「訂正」と呼ばれる方法と、量子エラー「抑制」という方法がある。前者の「訂正」は多数の物理量子ビットによって論理量子ビットの表現を冗長化することで、エラーが生じても元の状態に戻せるようにする方法である。ただし、意味のある計算を実行するには膨大な量子ビットが必要とされ、実用化は数年先と考えられている。これに対して後者の量子エラー「抑制」は、量子コンピューターの出力を古典コンピューターで統計処理し、正しい計算結果を推定する手法である。これは一般的に、数十〜数百ビット級の現在の量子コンピューター(NISQ)において特に有用な方法と考えられている。
遠藤はIU35選出後も、この量子エラー抑制の分野を中心に研究を続けている。特に大きな成果として挙げられるのは、2022年7月に論文発表した「一般化量子部分空間展開法」と呼ばれる手法だ。量子エラー抑制法はさまざまな手法が提案されているが、一般化量子部分空間展開法はそれら手法を統合して1つのフレームワークに落とし込んだ「究極形」ともいえるもの。NTTコンピュータ&データサイエンス研究所と東京大学、大阪大学、産業技術総合研究所の共同研究で開発した。
また、シンガポールのナンヤン工科大学、名古屋大学との共同研究により、世界で初めて量子エラー抑制の原理的な限界を示した。そして、大阪大学と産業総合技術研究所とでは、全く別の分野である非マルコフ物理と量子エラー抑制を結びつけるといった、量子エラー抑制の基礎物理的側面の研究もしている。
「量子エラー抑制法は実用的な観点から研究が進められてきたこともあり、情報理論の観点での研究は多くありません。現在は、一般化量子部分空間展開法のような実用的観点の研究だけでなく、性能限界や、物理学としての本質を示すような情報理論的な観点からも研究を進めています」。
さらに、現在のNISQの先に控える、エラー訂正を備えた「誤り耐性量子コンピューター」での量子エラー抑制法の確立にも取り組んでいる。従来はNISQ向けと考えられてきた量子エラー抑制の可能性を広げる研究だ。最近では、これまで念頭に置いてきた超2準位系の量子ビットではなく光量子ビットを想定したエラー抑制などにも研究領域を広げているという。
「国内外の大学の研究者やインターン生、学生などいろいろな立場の方と交流し、知見やアイデアを持ち寄りながら共同研究をし、さまざまな論文を書いている状況です」と遠藤は話す。
美しい夕日を見て世界の成り立ちを知りたくなった
神奈川県出身の遠藤は幼少の頃、親戚に連れられて地元の陣馬山の峠に足を運んだことがある。そこから見た夕日に美しさに心を打たれたことが、この世界を形作る法則に興味を抱くきっかけになった。年齢を重ねるにつれて天文学や宇宙物理学、幾何学、物理学などの自然科学に関心を広げ、気づけば将来は理数系の仕事に就きたいと思うようになっていた。
高校卒業後、遠藤は慶應義塾大学物理情報工学科へ進む。大学3年生の時には「難しいことを研究したい」と量子力学の研究ができる研究室を希望。「本当は理論に興味があったが、理論家としての自分に期待が持てず実験を選んだ」と遠藤は当時の選択を振り返る。研究室では量子情報を蓄えておくための量子メモリを研究したが、そこで「実験が大の苦手」であることを自覚したことで、後に理論研究へ転向することになる。
キャリアの大きな転換点となったのは、卒業論文に関連した質問をするために訪れた、当時NTT物性科学基礎研究所所属の理論家・松崎雄一郎氏(現在は中央大学理工学部准教授)との出会いだった。学部卒業後、修士課程に進むと同時に物理学科の理論研究室に移籍し、理論研究の道を歩み始めた遠藤は、松崎氏からNTTでインターンをするよう勧められ指導を受ける。
修士課程を修めた後は理化学研究所で研究員として9カ月間を過ごし、2017年1月、英オックスフォード大学の材料科学専攻博士課程へ進学。サイモン・ベンジャミン教授のもと現在の研究分野である量子コンピューターのアルゴリズム研究や量子誤り抑制の理論研究に取り組んだ。「留学していなければ、今の私はない」と言い切るオックスフォードでの3年間は研究者としての土台を固めた期間であり、現在のキャリアにつながる重要なステップとなった。
博士課程修了後は日本へ帰国し、2020年1月にNTTセキュアプラットフォーム研究所に入所。2021年7月からは現在の所属に移り、研究を続けている。「もともと研究対象は量子コンピューターでなくてもよかったし、量子コンピューターを研究したいと思った明確な瞬間があったわけではありません」と言う遠藤だが、さまざまな研究者と出会い紆余曲折を経て現在の研究にたどり着いた今、「ここまで来たからには徹底的にやる」と迷いはない。
固定観念にとらわれず柔軟な思考で突破口を開く
研究する上で大事にしている考えを遠藤に尋ねると、「固定観念にとらわれないこと」だと話してくれた。量子エラー抑制法は当初、「NISQデバイスを用いた量子計算に対して使うもの」という共通認識が自然と形成されてしまい、それを量子コンピューター全般に対して使えるというアイデアはなかなか出なかったという。
遠藤は、「一つの新しい概念が生まれた時に、『他にも使えるのではないか』『一般化できるのではないか』という視点で物事を捉えるようにしている」と話す。「固定観念を覆す突破口が見えたら、それを量子コンピューター界の研究者たちにシェアしながら皆で良いものを作っていくことが重要。上手くコンセプトを融合させて良いストーリーを作るのが、腕の見せどころです」。
幼少時に夕日を見て「美しい」と思った遠藤は、量子コンピューターを研究してきて「便利なものはやはり美しい」という1つの確信を得たという。「自分のキャリアの中で自信作になっている研究に、量子エラー抑制と量子エラー訂正を組み合わせたハイブリッドエラー削減法というものがあります。研究を進めていくうちに、互いの理論が美しいほどマッチしたのです」。
遠藤は理論家だ。その意味で、量子コンピューターがハードウェアとしてどう実現されるかという問題からはある部分では自由な立場にある。現在の量子コンピューターはまだNISQの時代だが、いずれ量子誤り耐性量子コンピューターの時代に移っていく。どういったアルゴリズムが今後必要になるのか、量子エラー抑制を適用した時にどうなっていくかを他の研究者と議論し、精査しながら研究の進むべき未来図を描くことが理論家としての役割となる。
「その成果を機が熟した際に徹底的に実験家と議論することで、実用的な量子コンピューターの発展を早められるとよいと思っています」と遠藤は言う。
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この連載ではInnovators Under 35 Japan選出者の「その後」の活動を紹介します。バックナンバーはこちら。
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- 畑邊 康浩 [Yasuhiro Hatabe]日本版 寄稿者
- フリーランスの編集者・ライター。語学系出版社で就職・転職ガイドブックの編集、社内SEを経験。その後人材サービス会社で転職情報サイトの編集に従事。2016年1月からフリー。