どうして宇宙は退屈なものではないのだろうか? そうなる可能性はあったはずだ。宇宙に存在する亜原子粒子の数は約1080個、つまり1の後にゼロが80個も続くほどの膨大な数だ。これらの粒子をランダムにばらまけば、宇宙はただ同じ景色が広がる、単調な砂漠のようなものとなるだろう。つまり、何十億光年の距離をどの方向から見ても、原子よりあまり大きな構造のない、希薄なただの真空だ。しかし実際の宇宙を見ると、星や惑星、峡谷や滝、松林や人間など、さまざまなもので満たされている。溢れんばかりの豊かな自然がそこにはある。こうした多種多様なものが存在するのは何故だろうか?
過去半世紀にわたり、宇宙論研究者たちはこの問いの答えを導き出そうと、さまざまな観測装置を用いて複雑な実験を積み重ねてきた。しかし、科学の世界ではよくあることだが、その答えは完全には究明されていない。そして今、物理学者たちは、この問いに残された最大の謎のひとつ、「そもそも、複雑な構造を形成するだけの物質が、なぜ周囲に存在していたのか」を解明できるかもしれない。そのために、驚異的な感度を誇る新たな実験を実施し、かつて誰も見たことのない事象を観測しようとしているのだ。
私たちを取り巻くこの驚異に満ちあふれた宇宙をどんどんズームアウトしながら眺めてみると、より不可解さを増す。最初しばらくは、構造化された塊を目にできるはずだ。星々が銀河を形成し、銀河が銀河団を形成し、こうした銀河団が超銀河団や銀河フィラメントを形成している。そしてその周りを、物質がほとんど存在しない超空洞(ボイド)が囲んでいる。
しかし、さらにズームアウトして、3億光年を超えるスケールで宇宙の塊を見てみると、そのような構造はすべて霞んでしまう。このスケールを超えると、宇宙のあらゆる星からの光はぼやけ、不明瞭な靄(もや)状の見た目へと変わっていく。ここまで来れば、宇宙は確かに目立った特徴も差異もない、どの方向から見ても似通った退屈なものに見えてしまうだろう。宇宙論研究者はこれを「偉大さの終わり(End of Greatness)」と呼ぶ。
このような退屈な風景が存在するのは、宇宙がかつては本当に退屈な場所だったからだ。ビッグバンの直後から数十万年経った頃までは、宇宙はとてつもなく退屈なものだった。存在するのは赤く熱せられた粒子の分厚い靄だけ。それが何兆キロもの範囲に広がって、宇宙のあらゆる場所をほぼ均等に埋め尽くしており、場所ごとに物質の密度にほんのわずかな違いがあるだけだった。
しかし宇宙が膨張し、冷却されていくにつれ、重力がそのわずかな違いを増幅させた。それから何百万年、何十億年という時間をかけて徐々に、宇宙の中でわずかに物質が多い場所にさらに多くの物質が集まるようになった。私たちはここから生まれた。物質がどんどん凝縮し、わずかに密度の高かった場所に星や銀河、そして人間を形成するのに十分な物質が集まって極端に複雑な場所になったことで、さまざまなものが存在する現在の宇宙が生まれたのだ。しかし果てしなく遠くから見れば、宇宙は太古の昔と変わらず、今なお退屈が支配している。しかし、私たちが住むこの塵の中は、多様性に満ちている。
このシナリオにはまだいくつかの穴がある。ひとつは、そもそも物質がどこから来たのかが明らかでないことだ。素粒子物理学の理論では、物質を生成するものは必ず同質量の反物質も生成し、両者のバランスは厳密に保たれなければならない。あらゆる種類の物質粒子には、ほとんどすべての点においてその物質と同じ振る舞いをする反物質という双子が存在する。しかし、物質粒子が対となる反物質粒子と衝突すると、それらは互いに打ち消し合い、高エネルギーの放射線を放出して消滅する。
それこそがまさにビッグバンの直後に起こったことだった。物質と反物質が対消滅を起こし、私たちの宇宙は放射線の光で満たされることとなった。そして当初存在していた物質の量が反物質の量よりもわずかに上回っていたため、ごくわずかに残存することとなった。このわずかなアンバランスによって、無限の退屈から一転して、現在の形の宇宙が生まれたのだ。しかし私たちは、それがなぜ起こったのかを解明できていない。「どういうわけか、このようなわずかな不均衡が生じ、それがすべての存在、とりわけ人間の存在へと繋がったのです。人間とは本当に興味深い存在なのです」とマサチューセッツ工科大学(MIT)の実験素粒子物理学者、リンドリー・ウィンズロー教授は語る。「私たち学者は、宇宙と …