競争から協力へ、「オープンソース」は創薬の常識を変えるか
抗ウイルス創薬を競争的なプロセスではなく、協力的なオープンサイエンスにする取り組みが始まって3年半が過ぎた。その成果がサイエンス誌に掲載された。 by Cassandra Willyard2023.11.21
この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックに見舞われたとき、抗ウイルス剤の供給源はないも同然だった。製薬会社は確かに、インフルエンザや、いくつかの慢性感染症に有効な医薬品を開発してきた。しかし、パンデミックを引き起こす可能性がある他のウイルスのために医薬品を開発するまでの動機を持っていなかった。差し迫った脅威をもたらすわけではない病気のための医薬品開発は、実入りのよい話とは言えないからだ。
しかし、その方程式から利益を取り除き、創薬を競争的なプロセスではなく、協力的なものにしたら何が起こるだろうか。 「COVIDムーンショット(Covid Moonshot)」というオープンサイエンスの取り組みの背景にあるのがこのアイデアだ。COVIDムーンショットは、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)向けの抗ウイルス薬開発のためのイニシアチブで、この薬の設計を求めるツイッター上の嘆願から2020年3月に始まった。「すべての創薬化学者に呼びかけています!」と書いたのは、ワイツマン科学研究所(Weizmann Institute of Science)の技術者として創薬に従事する二ール・ロンドンである。
2023年11月9日、このプロジェクトを支える研究者たちの成果が、サイエンス誌に掲載された。25カ国からボランティアとして集まった科学者200人以上が貢献した取り組みは、1万8000の化合物の設計を作り出し、そこから2400の化合物が合成された。そのうちのひとつが、新型コロナウイルスの主なウイルス酵素を標的とする化合物である。これは現在、プロジェクトの主力候補の基礎になっている。「Mpro」として知られる酵素は、ウイルス複製における重要なステップである、ウイルスの長いタンパク質を切断して短い塊にする働きを持つ。 COVIDムーンショットで合成された化合物は、この酵素の働きを停止させる。パンデミックが始まった後にファイザーが開発した抗ウイルス薬「パクスロビド(Paxlovid)」も同じ狙いを持つ。
大勝利のようには感じられないかもしれない。たとえこの化合物が有効でも、それを薬として開発するにはさらに長い年月がかかるだろう。 「それでも、大抵の創薬の事例との比較では、驚くべき早さです」と、COVIDムーンショットに参加する非営利団体「顧みられない疾患の治療薬イニシアティブ(Drugs for Neglected Diseases Initiative:DNDi)」で創薬部長を務めるチャールズ・モーブレイは言う。
新型コロナウイルスのパンデミックが収束しつつある今、新たな薬の開発はかつてほどの緊急課題ではないように思えるかもしれない。しかし、「次のパンデミックや次のアウトブレイク、または次の変異株に備えられる別の抗ウイルス薬の必要性は、依然として非常に高いのです」とモーブレイ部長は付け加える。
米国立アレルギー・感染症研究所(National Institute of Allergy and Infectious Diseases)は、パンデミックの可能性を持つ10科目のウイルスを特定している。そのうちのいくつかは皆さんも聞いたことがあるだろう。エボラ、西ナイル、はしか、A型肝炎などだ。その他のウイルスの知名度はさほど高くない。たとえば、ペリブニヤウイルス科のラクロス(La Crosse)、オロプーシュ(Oropouche)、キャッシュバレー(Cache Valley)はおそらく耳にしたことがないだろう。天然痘には抗ウイルス薬があり、今では新型コロナウイルスの抗ウイルス薬もある。しかし、これらのウイルスの多くには、何の治療法もない。錠剤も、抗体もない。何もないのだ。この問題を解決できる可能性があるのが、オープンソースによる医薬品開発である。
オープンソースモデルには、もうひとつの潜在的な利点がある。グローバルアクセスだ。 現在のCOVID-19治療薬は特許で保護されており、世界の大部分の人々には手が届かないものになっている。米国でさえ、それらは高価な医薬品だ。2021年にパクスロビドが発表されたとき、米国は2000万以上の治療コースを1コース当たり529ドルで購入し、無料で利用できるようにした。しかしファイザーは、2024年に商業市場でこの薬の販売を開始する際には、価格を2倍以上の1回当たり1390ドルへ引き上げるという。
COVIDムーンショットは特許保護の対象にならない薬を開発している。そのため、同組織が作るものはすぐにジェネリック医薬品になる。「複数のメーカーが製造でき、必要なときに、必要としているすべての人へ届けることができます。企業が自らすすんでそうするにせよ、そうでないにせよ、時間がかかって面倒なライセンス交渉に待たされることもありません」とモーブレイ部長は言う。
次に起こるのは何か。DNDiは、「DNDI-6501」と呼ばれる主力候補の開発を主導し、前臨床開発を進めていく予定だ。COVIDムーンショットのチームも研究を継続する。昨年、米国立衛生研究所(National Institutes of Health:NIH)は、経口抗ウイルス薬の開発を継続するため、この共同事業体に6900万ドル近くを授与した。同組織では、今後は新型コロナウイルスの治療薬だけでなく、西ナイル、ジカ熱、デング熱、エンテロウイルスの治療薬開発も計画している。
完全なオープンソースのプロセスで市場に出た医薬品はこれまで存在していない。 しかしそれは、このモデルが医薬品開発に変化をもたらすことができないという意味ではない。日本の塩野義製薬は、COVIDムーンショットのデータを、抗ウイルス薬「エンシトレルビル(ensitrelvir)」の開発に役立てた。この薬はすでに、日本で緊急時の使用が承認されている。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの化学者でオープンソース・ファーマ(Open Source Pharma)の創設者でもあるマシュー・トッド教授は、「勘違いされがちなのですが、オープンであることは、直接にせよ、製薬会社によるものにせよ、影響力が強い分子の翻訳を妨げる障壁にはなりません」と言う。
モーブレイ部長は、医薬品の研究開発でより多くの成果が共有されることを期待している。どのウイルスが次のパンデミックを引き起こすのかは分からない。見たことのある種の変異株なのか、それともまったく新しいウイルスだろうか。 このリスクを管理するのに十分な抗ウイルス薬を、ひとつの組織が用意できるだろうという考えは、現実的ではないとモーブレイ部長は言う。「それぞれの取り組みを皆で共有する用意があれば、適切な治療薬候補を準備できる可能性は、はるかに高くなるでしょう」。
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パンデミックからは、新型コロナウイルスとその経時的な進化に関して大量のデータを得ることになった。 フリージャーナリストのリンダ・ノードリングは、「雪崩のように押し寄せる遺伝子配列解読」 が新たな脅威の特定や、他の疾患の追跡にどのように活用される可能性があるのかについて記事を書いた。
本誌のアントニオ・レガラード編集者は2020年、新型コロナワクチンの開発がどのように展開しそうか、ワクチンが有効であると証明するために製薬会社に求められることは何かを明らかにした。
次のパンデミックへの備えは十分か?
次のパンデミックに備えるには、医薬品開発の全面的な見直し以外にも求められることがある。 早期警戒システムも強化する必要がある。2021年、米国疾病予防管理センター(CDC:Centers for DIsease Control and Prevention)は、新たに発生中だった新型コロナウイルス変異株を検出するため、米国のいくつかの主要空港で監視プロジェクトを立ち上げた。
CDCは現在、インフルエンザやRSウイルスを含む30の新しい病原体を対象に、プログラムの拡大を計画している。今のところ、追加検査の実施が決まっているのは、サンフランシスコ国際空港、ジョン・F・ケネディ国際空港、ローガン国際空港、ダレス国際空港の4カ所のみだ。
その仕組みは次のとおりだ。監視プログラムを実施している空港に海外から到着した旅行者は、自分で鼻腔液をぬぐってサンプルを採取するボランティアに参加することができる。これらのサンプルは、PCR検査のため研究室へ送られ、陽性になったサンプルは全ゲノム・シーケンシング(塩基配列解読)を受けることになる。 このプログラムでは、個々の飛行機からの廃水と、飛行機の廃水すべてが捨てられる共通排水溝からもサンプルを収集する。
CDCの旅行者ゲノム監視プログラムを率いるシンディ・フリードマン博士は、 CNNに対して次のように語った。「地理的に遠く離れた場所から来た航空機のサンプルひとつで、その飛行機に乗っていた200人から300人ほどの情報を得られる可能性があります」。
10月時点で、この監視プログラムは135カ国以上から37万人を超える旅行者を検査し、1万4000件以上のサンプルを解読した。
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