ES細胞誕生から25年、「エンブリオテック」は起爆剤になるか
25年前にヒト胚から最初に樹立されたES細胞の研究には、膨大な時間と資金が投入されてきた。だが、まだ承認済みの治療法を生み出せていない。 by Antonio Regalado2023.09.07
この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。
先日、パーキンソン病に関する研究結果についての記事を公開した。バイオテック企業がドーパミン産生ニューロンを人の脳に移植した治験の記事である(全文はこちらからお読みいただきたい)。
私がこの実験や、他の同種の実験を追っているのは、それらが胚性幹細胞(ES細胞)から作られた移植組織の治験という、長らく待ち望まれてきたものだからである。ES細胞は、体外受精(IVF)処置で残ったヒト胚から25年前に最初に取り出された細胞で、時折物議を醸している。医学的には、他のどのような細胞にも変化できると期待されている。
だが、幹細胞には、いくつかの点でがっかりさせられている。その可能性にもかかわらず、これほどの時間が経過しても、承認済みの治療法が作り出されていないのだ。製薬大手バイエル(Bayer)傘下のバイオテック企業、ブルーロック(BlueRock)が実施するパーキンソン病の研究は、安全性テストの最も初期の段階であるフェーズ1(第1相臨床試験)を通過したところだ。移植がうまくいっているかどうかは、まだ分かっていない。
ES細胞にこれまでどれほどの資金が投入されているのかは不明だが、数十億ドルに達しているのは間違いない。そして多くの場合、細胞移植がうまくいくかもしれないという元々の原理の証明は、実際には何十年も前のものである。たとえば、死体から膵臓細胞を移植して糖尿病を治療できることを示した実験は、1990年代に実施されたものだ。
人間の死体や、時に中絶された組織から採取した細胞が作り出す生成物は、不均等であるうえに入手が困難だ。現代の幹細胞企業は、代わりに正確な仕様に合わせた細胞の製造を目指しており、実際に製品として利用可能なものができる可能性は高まっている。
しかし実際にはそれほど簡単な作業ではなく、研究の遅れの大きな要因となっている。「成果がない理由は答えられます。製造上の問題です」と語るのは、研究者の要望に沿って幹細胞要求を作る新たな方法を開発しているスタートアップ企業、ビットバイオ(Bit Bio)のマーク・コッター創業者だ。
ES細胞から生み出された治療法はまだない。その一方で、生物学研究室を見回すと、この細胞はいたるところで見つかる。今年の夏、マサチューセッツ工科大学(MIT)のキャンパスにあるホワイトヘッド研究所(Whitehead Institute)で慌ただしい細胞培養室を訪れたとき、博士研究員のジュリア・ジュオンが、ES細胞のプレートを取り出し、顕微鏡で銀色の輪郭を見せてくれた。
若く有望な科学者であるジュオン博士は、ES細胞を制御する新しい方法にも取り組んでいる。信じられないことに、私が見ていた細胞は、最初期の1998年に供給された細胞の子孫だった。ES細胞の不思議な特性の1つは、不死であることだ。永遠に分裂し続ける細胞なのだ。
「これはオリジナルです」とジュオン博士は言った。
幹細胞が科学プロジェクトにとどまらず、テクノロジーである理由の1つは、その再現性にある。なんとすばらしいテクノロジーだろうか。インターネットには世界中のあらゆる情報が揃っている。細胞胚は、人体を完成させるための情報を持っている。
私はこれを、「エンブリオテック(Embryo tech:胚技術)」として考えるようになった。胚に何かをする(遺伝子検査や遺伝子編集など)わけではなく、胚を研究することで抽出できる、強力なテクノロジーを指す呼び名である。エンブリオテックには、幹細胞と、IVFによる新しい生殖方法が含まれる。そこには、本物の若返り科学の手がかりさえ潜んでいる可能性がある。
たとえばサンディエゴのある研究室では、幹細胞を使って脳オルガノイドを培養している。ペトリ皿で生きる胎児期の脳細胞の組織体である。研究室で働く科学者たちは、オルガノイドをロボットに取り付け、迷路の中を導く方法を学ぼうとしている。突拍子もないことに聞こえるかもしれない。だが、未来の携帯電話には生物学的な部品が、さらにいうなら脳の一部が組み込まれるかもしれないと推測する研究者もいる。
エンブリオテックの最近のもう1つの例に、長寿科学がある。研究者たちは今や、転写因子と呼ばれるものに細胞を接触させ、どんな細胞も幹細胞に変えられる方法を手に入れた。それは、倫理的な欠点を伴う胚を出発点に使用する必要がないことを意味する。
生物工学で注目されているアイデアの1つが、量を制御したこれらの因子を投与し、身体の一部を実際に若返らせるというものだ。最近まで科学界の定説では、人間の生命は一方向にしか進めないということになっていた。前進あるのみだったのだ。しかし現在は、時計の針を戻すことを考えるようになっている。細胞を、かつて胚だった頃の状態へわずかに後退させるのである。
このアイデアに取り組んでいる企業の1つが、ターン・バイオ(Turn Bio)だ。同社は、転写因子を人間の肌に注入してシワをなくせると考えている。アルトス・ラボ(Altos Labs)という別の会社は、この現象に関する深い科学的疑問を追求するために30億ドルを調達した。
最後に、もう1つのすばらしい発見として、適切な指示を与えると、幹細胞は胚のような形に自己組織化しようとすることが分かっている。合成胚や胚モデルと呼ばれるこれらの物質は、新しい避妊薬の開発を目的とした研究などに役立つだろう。それらはまた、どんな細胞でも、たとえほんの少しの皮膚であっても、まったく新しく人を作り出すだけの本質的な能力を持っているかもしれないという、まばゆいばかりの証明でもある。
私の考えでは、これらすべてがエンブリオテックの例である。しかしその性質上、この種のテクノロジーは私たちの感性に衝撃を与えることがある。よくある話だ。生殖とは秘密めいていて、神聖なものでさえあるものなのだ。それなのに研究室では生命の輝きを弄んでいる。フランケンシュタインごっこのようではないか。 パーキンソン病の治療について記事にしていたとき、バイエルがエンブリオテックに関して、いまだに不安を感じていると知った。同社の関係者は、「胚」という単語を完全に避けようと必死になっていた。 ドイツには、国内での研究目的での胚の破壊を禁じる非常に厳格な法律があるからだ。
では、エンブリオテックは次にどこへ向かうのだろうか。私はヒトES細胞の進捗を追跡するつもりだ。最前線で取り組んでいるいくつかの大きなストーリーが、衝撃と畏敬の念、そしてインスピレーションをもたらすものになることを期待している。続報に期待してほしい。
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- MITテクノロジーレビューの生物医学担当上級編集者。テクノロジーが医学と生物学の研究をどう変化させるのか、追いかけている。2011年7月にMIT テクノロジーレビューに参画する以前は、ブラジル・サンパウロを拠点に、科学やテクノロジー、ラテンアメリカ政治について、サイエンス(Science)誌などで執筆。2000年から2009年にかけては、ウォール・ストリート・ジャーナル紙で科学記者を務め、後半は海外特派員を務めた。