遺伝子解析サービスを提供するジーンクエストの創業者・高橋祥子が、「Innovators Under 35 Japan(35歳未満のイノベーター)」の1人に選ばれたのは2020年。「起業家」カテゴリーでの選出だった。インターネットを活用した個人向け遺伝子検査サービスを日本で初めて立ち上げたこと、それにより集まった遺伝子データや受検者の生活習慣、既往歴に関するデータを匿名化してデータベース化し、遺伝子研究プラットフォーム「ジーンクエストリサーチ」を作り上げたことが評価された。しかし高橋は、「必ずしも起業がしたかったわけではない」のだという。
「病気になる前に何とかできないのか」
高橋が生命科学の領域に進もうと決めたのは、大学進学の時だった。父親が医師で、親族にも医師が多い家系だったことから、「医師か、医師以外か」の2択から進路を考え始めたのだという。父親が勤める総合病院を見学に訪れた時、「この大きな病院に来ている人たちはみんな病気なんだ」と思った。そして、「病気になった後に治療する仕事もすばらしい仕事だけど、病気になる前に何とかできないのだろうか」との疑問が浮かんだ。
医師を目指すよりも、その疑問に対する答えをもう少し幅広い視点で探求したいとの理由から、京都大学農学部応用生命科学科へ進み、病気の予防メカニズムを研究する研究室に所属した。ゆくゆくは研究者として学術界でキャリアを築こうと考えていた高橋は、大学卒業後、東京大学大学院農学生命科学研究科に進む。そして、博士課程在籍中の2013年6月にジーンクエストを創業した。起業した理由を高橋はこう語る。
「誰が今の研究成果を社会に実装していくのかを考えた時に、まだそのプレイヤーがいませんでした。人間の仕組みは未解明のことが多く、私が生きているうちに全部解明できるかどうかすら疑わしいほど難しい領域。だから研究を早く進めなければと考えたのです」。
研究を加速するための起業
2003年にヒトゲノムが初めて解読されて以来、DNAシーケンサー(塩基配列解読装置)の高速化と低価格化が急速に進み、人間の身体の仕組みをデータとして捉えられるようになった。「データが集まれば研究が加速する」との考えが、ジーンクエストのビジネスモデルの根幹にある。研究成果をビジネスを通じて社会に実装していくことで、さらにデータが集まる。そのデータから新たな発見がなされ、研究が進んでいく。ビジネスと研究が両輪となり、遺伝子の究明が加速する。
現在では研究は会社の研究開発部門に任せ、自らは経営に専念しているという高橋だが、「やりたいことは研究者の時と変わっていない。起業がしたかったわけでもなく、研究者としてやりたいことを突き詰めた結果、最適解として起業がありました」と話す。
具体的には、どのように研究を加速するのか。例えば2021年に新型コロナワクチンの接種が始まった際、ジーンクエストはワクチンの副反応と遺伝的個人差の研究を東北大学病院総合感染症科と共同で実施した。すでに遺伝子解析サービスを受けたことがある人の中で、新型コロナワクチンを接種した人を対象に、接種後にどのような種類の副反応があったかを聞くWebアンケートを実施した。すると、わずか数日で5000人以上から回答が集まったのだ。インターネット・コホートと呼ばれるこの手法で、通常なら1〜2年はかかるような内容にもかかわらず、研究は開始から約2カ月でプレプリント(査読前論文)の発表にこぎ着けた。
「病気になる前に何とかできないのか」という思いは、遺伝子解析サービスの「事前に病気のリスクを知ることで予防の行動につなげる」というコンセプトそのものになっている。
「遺伝子解析サービスとジーンクエストリサーチという土台があったからこそ、コロナ禍という緊急事態においても迅速に価値を発揮できました」と高橋は言う。2022年6月には、東京大学と共同で実施した「食品栄養分野における遺伝的個人差に関する研究プラットフォームの開発」に関する研究成果が評価され、令和4年度日本栄養・食糧学会 技術賞を受賞した。
2022年には、企業向けサービスも開始した。例えばフィットネスジムの会員に対して、ジーンクエストの遺伝子解析の結果をカスタマイズして提供し、ジムが個々の会員に遺伝子情報に基づくトレーニングを提供できるようにするものだ(もちろん、ユーザーの許諾を得た上でだ)。提供先はフィットネスジムのほかにも美容クリニックや健康に配慮する飲食店、医療機関、薬局などがある。薬は効果や副作用の現れ方(薬剤応答性)やその程度に個人差があるため、遺伝子情報に基づいた服薬指導に役立つ。
そのほかに、食品企業が基礎研究をする際にジーンクエストの研究プラットフォームを提供している。企業や大学、研究機関などと研究をして論文を出していくことは、日本のゲノム研究の底上げにつながっている。
地道に乗り越えた、社会に受け入れられることの難しさ
やりたいこと、研究に対する考え方は起業から10年経った今も「変わらない」と高橋は言う。高校生の時に抱いた「病気になる前に何とかできないのか」という思いは、遺伝子解析サービスの「事前に病気のリスクを知ることで予防の行動につなげる」というコンセプトそのものになっている。
「テクノロジーそのものでできることと社会でできることには差があります。遺伝子解析もそうですし、ゲノム編集や遺伝子治療もそうですが、テクノロジーそのものの難しさ以上に、社会の受け入れ体制にハードルがあると感じています」。
それはコロナ禍にも、ワクチンを忌避する人が出るなどの形で露呈した。技術そのものを客観的、科学的に評価するのではなく、未知のものに対して「なんだか怖い」「よく分からない」といった漠然とした不安の感情が先に立ってしまう。
「遺伝子解析も同じ。遺伝子を調べると、自分が何歳で死ぬか分かってしまうのではないか。この病気に絶対なると言われのではないか。そういった不安を抱かれてしまう。実際はそういうものではないのですが」。
事実、遺伝子解析サービスを始めた頃には、批判もあった。しかし今では遺伝子検査サービス自体を批判されることはほとんどないという。「何かきっかけがあったとかではなく、地道に説明をしながら活動を続けてきたことが大きい」と高橋は話す。
「そんな時代もあったんだ」と振り返る未来に
起業当時の高橋は、「10年後の今ごろは、日本中の全員が遺伝子検査を受けているイメージだった」そうだ。「だからまずは、この遺伝子解析サービスをもっと広げていきたい」と前を向く。コロナ禍以降は健康意識が高まったこともあってか、2022年はこの10年で最多の受検者数となった。ユーザーが増えることで、クチコミで広がったり、遺伝子解析という言葉を目にしたり耳にしたりする機会も増えているという。
遺伝子情報からは病気のリスクだけではなく、食に対する感受性や代謝との関係、睡眠体質などさまざまなことが分かる。例えば、人には睡眠の体質があり、朝型の人もいれば夜型の人もいて、「早起きした方がよい」ということが誰にでも当てはまるものではないことが研究で分かってきている。
「今の私たちはそうしたことを知らないまま、日々食事をしたり生活を送ったりしているわけです。でも、未来は『そんな時代もあったんだ』と振り返るようになっているかもしれません」と高橋は言う。
◆
この連載ではInnovators Under 35 Japan選出者の「その後」の活動を紹介します。バックナンバーはこちら。