この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。
今回の記事は、ポルトガルのリスボンからお届けする。脳刺激に関する学会に出席するためだ。神経学者、脳神経外科医、精神科医、そして倫理学者が集まり、磁気または電気のパルスを用いて脳の働きを変える技術の最新動向について議論している。
脳刺激ツールには、頭に端末をかざすだけのものもあれば、頭蓋骨に穴を空けて針のような電極を脳の奥深くに埋め込むものもある。こうした両極端な手法の中間にも、さまざまな手法が存在している。その仕組みについて、そしてどのように使用するのが最も好ましいのかについては、解明に向けた取り組みが続いている最中だ。一部の取り組みでは、個人の脳に関する膨大なデータを収集している。そして、このデータが、法廷にてデータを収集した研究者に不利な証拠として採用される可能性がある。
脳刺激が、既存の治療に反応しないパーキンソン病やうつ病の治療に効果があることはすでに分かっている。しかし、ここに集まった科学者たちは、脳刺激をより広い用途で活用しようとしている。科学者たちはすでに脳刺激を強迫性障害やアルコール依存症、物質使用障害などの疾患の治療に使う方法を研究しており、脳卒中からの回復や、果ては新型コロナウイルス感染症の後遺症の治療にも応用しようとしている。他の科学者たちは、脳刺激によって健全な脳の働きをさらに高める方法を研究している。記憶力を向上させたり、数学的能力を高めたりといった効果を狙っているのだ。
学会の会場で見聞きしたものからは、脳刺激の研究はますます順調に進んでおり、今後数年の間に医学界で、脳刺激のうち少なくとも一部が普及する可能性が高いとの印象を受けた。
重要な進展がある分野については、MITテクノロジーレビューの別の記事でも紹介している。そのうち1つは、ヒトの脳から大量のデータを引き出し、記録して分析するという技術だ。これは、最近になるまで技術的に不可能とされていた技術だ。現在では、重度のてんかん患者や既存の治療法に反応しないてんかん患者に対して、1週間またはそれ以上にわたって、電極を脳に埋め込むことが一般化している。こうすることで、医師は、脳のどの部位でてんかん発作が始まっているのか確認できる。その結果を見て、脳外科医がその脳組織を切除することで、てんかん発作を止められるのだ。
現在では、神経学者は人工知能(AI)を活用したツールで、ヒトの脳から収集した他のデータも理解できる。これによって、たとえば、私たちが休息している時、おしゃべりしている時、または食事をしている時に、脳が何をしているのかを理解するのにつながる可能性がある。最近、私はこうしたデータから、脳は比較的安定したフェーズと混沌としたフェーズの間を行き来しているようだということを発見したチームについて記事を書いている。
脳に電極を埋め込むことで、その他の疾患についての理解につながることもある。たとえば、うつ病だ。複数の研究チームが、一般的な抗うつ剤では治療できず、さらには電気けいれん療法のような最終手段にも反応しない重度のうつ病患者を、脳の深部を刺激することで治療できるのではないかと考えて調査を進めている。
最先端の手法は、「クローズド・ループ型」機器を使用する手法だ。クローズド・ループ型の機器とは、脳の中で何が起きているのかを記録し、その後状態が悪くなりそうだと判断した時だけ電流を流すように設計されている。
また、遠隔操作での脳刺激を目指す動きもある。つまり、自宅にいる患者の脳のデータを収集してクリニックに送り、クリニックにいる医師が自宅にいる患者を治療するのだ。いずれのアプローチにおいても、脳から記録したデータの収集、保管、共有が必要となる。脳のデータからは、任意の時間における脳の状態を解き明かせる可能性があり、そうなればその人物がその時点で何をしていたのか、または何を感じていたのかがある程度分かってしまう可能性がある。
「それは問題でしょうか」。カナダのオタワ大学で神経科学における法律面、倫理面、および政策面の問題について研究するジェニファー・チャンドラー教授は、こう出席者に問いかけた。「それは、データの使われ方によります」。
チャンドラー教授は、ロス・コンプトンという男性を例に出した。コンプトンは、2016年にオハイオ州の自宅に放火した疑いで起訴された。その際、自身の心臓のデータが自身に不利な証拠として採用された。コンプトンは、夜中に目が覚めると自宅が燃えていたので、急いで身の回りのものをいくつかつかんで、窓を割って、外に逃げたと主張していた。
しかし、当局者は、コンプトンの服と靴から微量のガソリンを検出した。そのため、捜索令状が出され、司法当局はコンプトンのペースメーカーが収集したデータを押収できた。心臓専門医は、コンプトンの心臓の健康状態から判断すると、コンプトンがすばやく持ち物を自宅から持ち出せた可能性は非常に低いと証言した。
チャンドラー教授は、脳から記録されたデータも同様の形で使用される可能性があると警告した。チャンドラーは、昨年夏、脳機器を作る企業の従業員から聞かされた事例についても話した。てんかん患者の脳に埋め込まれたインプラントが記録したデータの提供を、司法当局から求められたというのだ。このてんかん患者は、警察官に暴行した疑いで起訴されていた。しかし脳のデータから、当時てんかん発作が起きていただけであることが証明された。
この人物は、脳のデータによって潔白を証明できた。しかし、同様のデータがデータを収集された人物に不利な形で使われるシナリオも容易に想像できる。たとえば、神経から記録されたデータを分析すれば、自動車事故を起こした運転手が覚醒していたか、道路に注意を払っていたかといったことまで、分かってしまう可能性もある。
こうしたデータが今後、刑事裁判制度においてどのように使われる可能性があるのか、明らかではない。しかし、この分野では爆発的に研究が進み、技術が進歩している。今のうちから、脳のデータの使用方法、そして保護方法について考え始めることが非常に重要だ。
MITテクノロジーレビューの関連記事
脳刺激テクノロジーには、極めて侵襲性が高いもの(たとえば脳外科が脳に電極を差し込むようなものを想像してほしい)から、侵襲性がないもの(頭蓋骨の上に磁石をかざすもの)まで、さまざまなものがある。しかし、侵襲性がないものであっても、脳の中で何らかの変化を引き起こし、私たちの思考や感情に影響を与えることができる。「侵襲性がない」といいつつ、実は私たちが思うより侵襲性があるということだ。それに関して、こちらの記事に書いている。
「記憶舗装具」を埋め込むことで、脳に損傷を負った人の記憶力を向上できるようだ。2022年9月の記事を参照してほしい。舗装具は、脳が「海馬(タツノオトシゴのような形をしている)」という部位で記憶を形成する際に典型的に見られる活動を再現するよう設計されている。
それから、スイムキャップのような帽子に取り付けた電極から非侵襲的に優しい電気パルスを送り込んで脳を刺激することで、高齢者の記憶力が高まるようだ(関連記事)。
うつ病患者の脳に電極を埋め込むことで、うつ病の病態に対する理解と治療法の開発が進んでいる。あるチームは、いくつかの電極を使って「気分解読機」を開発した。うつ状態に入りそうなタイミングでその兆候を検知して、うつ状態に入るのを防ぐことができる。
よからぬ者の手に渡ると危険となる可能性があるのは、脳のデータだけではない。本誌のターニャ・バス記者は、ロー対ウェイド判決が覆された後に、生理についての健康データを保護するためのガイドを執筆している。
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後遺症に関してもう1つ。症状が続いている人に聞いてはいけない質問が、こちらにまとめられている。(ジ・アトランティック)
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