波紋広げた研究論文、
トランスジェンダー伝染説は
いかにして利用されたか
性別違和(性同一性障害)はネットを介して伝染し、突然発症する——。5年前にある医師が発表した「ROGD(急性性別違和症候群)」をめぐる1報の論文は、科学的根拠に乏しいと否定されたにもかかわらず、今も大きな影響を与え続けている。 by Ben Kesslen2023.10.23
ジェイは14歳の時、母親にバイセクシャルだと伝えた。母親は理解を示してくれた。しかしその数年後、ジェイがトランスジェンダーだとカミングアウトした時の反応を異なっていた。突然のカミングアウトを信じられなかったのだ。母親はそれからすぐにユーチューブの動画やネットの掲示板で情報を収集し、受け入れられないのは当然だと確信するようになった。母親は、ジェイは明らかに単に勘違いをしているだけだと考えた。ソーシャルメディアを通して広がる「ROGD(急性性別違和症候群:Rapid-Onset Gender Dysphoria)」、言い換えればトランスジェンダーの人からの「伝染」によって、ジェイは自身が女性ではないと確信するようになったのだと言ったのだ。つまり、インターネットがジェイをトランスジェンダーに「変えて」しまった、のだと。
ROGDは、5年前に医師で研究者のリサ・リットマンが、科学・医学を扱う査読付きのオープン・アクセス学術誌「プロス・ワン(PLOS One)」で発表した論文によって、大きな注目を浴びるようになった。ROGDの概念は、性別違和、つまり自身が思うジェンダーと社会的に割り当てられた性別が一致しないことによる違和感に、「新たなサブカテゴリーが存在する可能性」があるという仮説だ。この理論は、ROGDの若者はネット仲間の影響の結果として、性別違和を感じ、トランスジェンダーを認識するようになると主張している。彼らは性別違和と誤診され、実際に直面している問題に向き合っていないのだという。
リットマン医師が親を対象に聞き取り調査をした結果、「子どもは性別違和を発症する直前に(中略) ソーシャルメディアに没入していた」と報告した。十代の若者がトランスジェンダーだと認識するようになると、過度に、そしておそらくは無意識のうちに、周囲の同年代の子どもたちに同様の影響を与えてしまう、とリットマン医師は主張した。彼女はその主張で、トランスジェンダーの若者が増えていることを部分的に説明できると述べている。また、こうした影響を特に強く受けるのは、出生時に女性と割り当てられた子どもたちだとも付記している。
この論文で調査対象となった親は、明確な反トランスジェンダーまたはトランスジェンダーに懐疑的な立場を取っているWebサイトや掲示板で募集されていたことから、論文が公開されるとほぼ瞬時に批判が集まった。2018年8月に論文が公開された直後、プロス・ワンはリットマン医師の方法論に疑問を呈するコメントを発表した。当時リットマン医師が所属していた米ブラウン大学は、この研究に関するプレスリリースを取り下げた。9月上旬には、世界トランスジェンダー健康専門家協会(World Professional Association for Transgender Health)が声明を発表し、ROGDは「単にアルファベットを並べただけのデタラメ」であるとして、使用を自粛するよう呼び掛けた。その6カ月後、プロス・ワンはリットマン医師の論文は単に「記述的かつ探索的」な研究であり、臨床的な検証が実施されていないことを強調する大幅な修正が加えられた論文を再度掲載した。2021年には、「小児科学ジャーナル(Journal of Pediatrics)」が広範な研究結果をまとめた論文を掲載し、ROGDが存在するエビデンスは見つからなかったと発表。米国心理学会(American Psychological Association)を含む60を超える心理学団体が、この用語の排除を求めた。
つまり、科学コミュニティでは、ROGDなどというものは存在しない、とのコンセンサスが形成されたのだ。しかし、それで問題は片付いたのだろうか。
リットマン医師の論文は、ある種の転機となった。ROGDのような理論や噂は論文が公開される前から存在していたが、一部のネット上でささやかれている程度だった。だが、リットマン医師の記述的研究はそれに正当性を与えてしまった。その後、ROGDは独り歩きを始めた。自身を「ROGDの子どもを持つ親」だとする人々が、ネット上で互いを助け合うためのグループを結成した。アビゲイル・シュライアーが著した反トランスジェンダー本『Irreversible Damage: The Transgender Craze Seducing Our Daughters(修復不能なダメージ:私たちの娘たちを誘惑するトランスジェンダーという狂気)』(2020年刊、未邦訳)は10万部以上が売れ、極めて人気の高い保守系のポッドキャストで紹介され続けている。ROGDという理論を言いふらすユーチューブ動画は、再生回数が数十万回にのぼっている。成人の性転換に関連する医療費をメディケイド(医療扶助事業)の対象から外そうとするフロリダ州の試みに関するメモのように、反トランスジェンダーの法案を正当化する文書でリットマン医師の研究は幾度となく引用されている。
ジェイの母親は、カミングアウトから5年経った今でも、ジェイは「トランスジェンダーではない」と考えている。
リットマン医師は、自身の研究は誤解されていると考えている。それでも、ROGDという概念は、反トランスジェンダーに説得力を与え、トランスジェンダーの若者を標的とした州法のような法制化を加速する科学的な根拠となり続けている。この理論がネット上の小さな掲示板から科学雑誌に進出し、さらに議会での議論でも引用されるに至った経緯を理解することは、トランスジェンダーの自律性と権利を制限するために用いられている、モラル・パニックと有害な論理の一端を明らかにするのに役立つだろう。また、政治的な目標達成のために、いかがわしい科学を武器にする方法を明確に示す例にもなる。
トランスジェンダーの若者に関する研究の多くは、誤りが見つかった後も影響力を与え続けている。ノースウェスタン大学准教授(コミュニケーション学)で、応用トランスジェンダー研究センター(Center for Applied Transgender Studies)所長を務めるT・J・ビラードはこう指摘する。特に、2008〜2013年までに公開された4報の論文をまとめて引用する形で、ほとんどの子どもたちにおいて性別違和は「成長とともに治る」ものであり、性転換しないことを選ぶ、との主張が展開されてきた。これらの研究はどれも、多くの問題点があることが示されている。複数の論文で、調査対象となった若者の40%近くが、当時使用されていた米国精神医学会の「精神障害の診断と統計の手引き(DSM:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders )」に記載されていた性別違和の公式診断基準を満たしていなかった。また、4報の論文のうち2報は、親または第三者が性別違和が自分の子どもに起こったかどうかを述べたことだけに基づいて、調査対象の若者の一部が出生時に割り当てられた性と異なる性を認識することをやめたか、認識する性を元に戻したと分類した。2018年には、3報の論文で、研究者への回答を断った若者が性転換をやめたと分類されていることが分かっている。さらに1報は、ノンバイナリーであると回答した若者を、認識している性を元に戻す過程にあると分類していた。
ビラード准教授は「不適切な科学は山ほどあり、論文として公開されるだけでなく、社会にも影響を与えてしまいます」と話す。トランスジェンダーの問題に詳しくない親は、ジェンダー肯定医療への理解がなく、自身で研究論文を読むだけの専門知識もないため、しばしばこうした不適切な科学論文に影響されてしまう。
こう考えると、よく分かるかもしれない。あなたに十代の子どもがいるとしよう。わが子のことは当然よく知っていると思っているところに、「突然」私はトランスジェンダーだと言い出される。想定外の出来事に、あなたは混乱してしまうに違いない。幾人かの友人に助言を求める人もいるだろうが、多くは1人で向き合わなければならないと感じてしまうのではないだろうか。そこである日、あなたは夜遅くに、グーグルで検索し、ウィキペディアの「子どもの性別違和」というページや、いくつかのニュース記事、それに米国疾病予防管理センター(CDC)の報告書を読んだりする。そして、聞いたこともない言葉や、ジェンダーには2種類しかないと疑ったことがない自分の考え方に反する多くの概念に圧倒され、パニックに陥ってしまう。
そうなれば、次は「『トランスジェンダ …
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