ヒトの脳は科学界で最大の難題だ。主成分は水であり、残りのほとんどは脂質に占められている。だが、この1.4キロ弱の塊が私たちの思考、記憶、情動を形作る。脳は私たちが世界とどう関わるかを定め、私たちの身体を動かす。科学者たちは、複雑きわまる脳のしくみの解明を進めている。ヒトの脳にある860億個のニューロンがどのようにつながり合い、アイディアや感情、コミュニケーション能力や反応が生じるのかについて理解は進みつつある。この記事では、観光ツアー型式で最先端の脳研究の数々をめぐり、それぞれの重要さについて簡単に紹介しよう。
細胞の集まりから、どのように思考や行動が生じるのか?
内容:
認知神経科学者と行動神経科学者は、タンパク質、遺伝子、脳の構造が、どのように行動や心的プロセスをつくりだすかを研究している。脳はどのように学習し、物事を記憶するのだろう?どのようにして物事を決定するのだろう?環境からの情報をどのように処理し、どのように反応するのだろう?
重要性:
記憶のメカニズムの解明はアルツハイマー病治療に、報酬探索行動の理解は依存症の治療に、情動に関する知見はうつ病予防の新たな手がかりになる可能性がある。
最先端:
トロント小児病院研究所(Hospital for Sick Children Research Institute)の上席研究員であるシーナ・ジョスリンは、脳のどこに、どのように記憶が蓄積されているかを研究テーマとしている。特定の記憶の蓄積を担う神経回路(互いにつながり合ったニューロンの一群)を明らかにすることは、記憶障害の治療に大きく貢献するだろうという。脳全体に影響を及ぼす薬を投与するのは、治療法として最適とはいえないからだ。
「脳を器に入ったスープのように扱うべきではないのです。オレガノをちょっと足したら、全部がおいしくなってしまいます」と、ジョスリン上席研究員は言う。「標的がどこなのか、正確に理解する必要があります」。より精密な標的治療の開発のため、同研究員は「記憶の形成・貯蔵・想起」に関わるニューロンと神経回路について、さらに理解を深めたいと考えている。
ジョスリン上席研究員のチームは最近、古い記憶の想起に重要な役割を果たす、これまで知られていなかった回路を特定した。この回路は、学習と記憶を司る脳部位である海馬から、感覚情報の中継地点である視床につながっている。動物実験で、この回路を遮断されたマウスは前日の経験は記憶できたが、先月の経験は覚えていられなかった。
ソーク研究所の神経科学者であるケイ・タイ教授は、学習や孤独感などの情動に関与する神経回路の研究から、薬物乱用や不安に関する新たな示唆が得られると考えている。彼女の研究チームは、同時に提示された刺激にポジティブな要素とネガティブな要素の両方がある場合に、行動の方向づけに関与する神経回路を特定した。
次のフロンティア:
記憶、不安、恐怖に関連する脳部位、神経回路、神経伝達物質についての知見が蓄積され、これらを操作する方法が解明されれば、疾患の治療にあたって、より精密な手法を開発できるだろう。
遺伝的要因
内容:
神経遺伝学の分野では、遺伝子が神経系の構造と機能に与える影響を調べる研究に取り組んでいる。
重要性:
遺伝子の役割を特定できれば、脳障害をより正確に診断できるだけでなく、遺伝子治療によって病状の進行を止めることさえ可能になるかもしれない。
最先端:
スティーヴン・マッキャロルは、ブロード研究所のスタンリー精神医学研究センターでゲノム神経生物学部門の研究主幹を務める。専門は統合失調症の遺伝学だ。共同研究者とともに、統合失調症に関連する遺伝的変異を特定した。この変異は、除去すべきシナプス(ニューロン同士の接続部分)の標識づけに関わるタンパク質を、通常よりも多く生成する。
マッキャロル研究主幹と同僚たちが、マウスでこの遺伝子の発現量を増加させたところ、マウスのシナプス数が減少した。さらにワーキングメモリーが損なわれ、社会行動にも変化がみられた。研究チームは、こうした遺伝的変異が、統合失調症患者に見られるシナプス数の減少や行動変化に関わっている可能性があるとみている。
カリフォルニア大学サンフランシスコ校大学院で神経学を研究しているであるイン・フイ・フー教授は、睡眠時間の減少を引き起こす3つの遺伝的変異を特定した。
このうちの1つは、睡眠不足に起因する記憶障害を防ぐ機能をもっていた。
若年性アルツハイマー病の遺伝的リスク因子をもっていながら、比較的健康に生活できている人にはどんな遺伝子がみられるのか探索している研究者もいる。
次のフロンティア:
遺伝子と疾患の関係を解明することは、治療法の開発につながる。疾患の原因遺伝子がつくりだすタンパク質の作用を阻害する薬や、発症を抑える遺伝子産物の作用を模倣した薬などが考えられる。有害遺伝子の発現を止める遺伝子治療についても研究が進んでいる。神経疾患の一種、筋萎縮性側索硬化症(ALS)に対するこうした治療法のひとつは、米国で治験が認可された。ハンチントン病の遺伝子治療の治験も現在進行中だ。
脳のエンジニアリング
内容:
神経工学者たちは、脳を含めた神経系と機械を接続する方法を模索している。神経活動をテキストに翻訳したり、神経活動を利用して義肢を動かす実験的デバイスがすでに誕生している。さらに、人工センサーからの情報を、脳が処理できる神経刺激に変換するものもある。
重要性:
麻痺患者や手足の切断を経験した人々が、コミュニケーション能力や感覚を取り戻し、再び動けるようになることにテクノロジーが貢献できる。脳刺激インプラントによって、てんかん、慢性疼痛、視覚障害といった疾患の治療にも、新たな光明がもたらされるかもしれない。
最先端:
スタンフォード大学の神経工学者たちは、脳活動記録を利用した、麻痺患者の機能回復をめざしている。この研究チームは最近、首から下の麻痺を抱える男性患者の協力を得て、脳内の手の動きを司る部位に、2つの微小電極を埋め込んだ。男性に手紙を書いているところを想像してもらい、チームは機械学習を利用して、脳活動を画面上の文字に翻訳した。このシステムを利用して、男性は1分間に90文字を書くことに成功し、脳活動を利用したタイピングにおける従来の記録を2倍以上に伸ばした。
一方、利用者に感覚情報を伝達できる義肢の開発に取り組んでいる神経工学者もいる。ジョンズ・ホプキンス大学応用物理研究所で神経工学を研究 …