合成生物学のユニコーン
「ギンコ」が描く未来に
2兆円の価値はあるか?
米国の合成生物学企業であるギンコ・バイオワークスが9月に上場した。生物学界のインテルになると喧伝し、巧みなストーリーで投資家を熱狂させているギンコは、実際にどんな成果を残し、何を目指しているのか。 by Antonio Regalado2021.10.19
ボストンの遺伝子工学企業ギンコ・バイオワークス(Ginkgo Bioworks)のジェイソン・ケリー最高経営責任者(CEO)は、合成生物学が実体のある製品の製造に変革をもたらすというストーリーの売り込みに見事に成功した。コンピューターが情報を変えたように、生物学は物理的な世界を変えるだろうと、ケリーCEOは語る。石油から化学物質を作る代わりに、ボストンの港町にあるギンコの「ファウンドリー(工場ビル)」で育成された酵母細胞を用いて、砂糖水のスープから化学物質を作り出せるかもしれない。
私が初めてケリーCEOを見たのは数年前のことだ。タイトなスポーツコートにスニーカーを履いた、少年のようなケリーCEOが講演していた。講演の内容は、何年も前からシリコンバレーで高い評価を得ていたものと同じだった。あるスライドには、鉢植えと黒いアームライトで飾られたグレー色の机の上に置かれたアップルのコンピューターやアイフォーン、カメラ、そして金属製の時計が写っていた。「この中で最も複雑なデバイスはどれだと思いますか?」と、ケリーCEOは問いかけた。
もちろん、答えは観葉植物だ。要するに、生物学は何でも作れるということである。たとえば、細菌が泳ぐときに使う鞭毛のような、信じられないほど精巧な小型の機械があるとする。ギンコの手にかかれば、スライドの中の有名なハイテク製品のように、生物学はプログラム可能で、革新的で、莫大な利益を生むという。「生物学は、ほかのどんなものよりも強力な製造プラットフォームです」(ケリーCEO)。
ケリーCEOの話があまりにも自信に満ちたものだったので、設立から13年経った今もなお、ギンコが微生物を利用して製造・販売している目立った製品が1つもないのは驚きだ。しかし、ギンコのファンにとって、これは問題ではない。DNA科学の最大のトレンドを体現するギンコは、生物学界のインテルやマイクロソフト、アマゾンになるというのだ。ケリーCEO自身もギンコをこの3社に例えている。とはいえ、懐疑的な人にとっては、ギンコは科学的な成果も収益も少ない企業であり、最大の才能といえば、熱狂的なマスコミ報道を勝ち取り、資金を調達することだと考えている。
ギンコが注目されるのは、多くの投資家にとって合成生物学分野の顔になっているためだ。ギンコは、SPAC(特別目的買収会社)であるソアリング・イーグル(Soaing Eagle)との合併を経て、9月に株式公開の準備を進めている(日本版注:9月17日にニューヨーク証券取引所に上場した)。SPACとは、新規株式公開(IPO)で資金を集めて有望な未上場企業と合併し、その企業を上場させることを目的として作られたダミー企業である。SPACは、刺激的な(そしてリスクの高い)若きハイテク企業を一般の投資家に公開するが、高額な株価はほんの一握りのディールメーカーたちの交渉によって決定される。2021年の初め、ソアリング・イーグルはギンコとの合併を発表し、時価総額は150億ドルに達した(日本版注:現在の時価総額は240億ドル)。ケリーCEOの保有株は、7億ドル以上の価値になるだろう。
バイオテック投資家の中には、ほとんど売上のない企業にこの評価は過大だと考えている人もいる。2020年、ギンコは研究サービスと新型コロナウイルス感染症(COVID-19)試験で7700万ドルの収益を上げたが、同時に多くの損失を出した(正確な損失額は1億3700万ドル以上)。「巧妙なストーリーが投資家の目に留まった良い例だと思います」と言うのは、マサチューセッツ州ケンブリッジにあるアトラス・ベンチャー(Atlas Ventue)のベンチャーキャピタリスト、ジャン・フランソワ・フォメラ博士だ。「ギンコのメッセージはすなわち、生物学はプログラム可能だということです。とはいえ、それは簡単なことではありません」とフォメラ博士は言う。さらに、150億ドルという評価額は「常軌を逸しているように思います」と付け加えた。
しかし、現在(2021年8月時点)の強気市場では、懐疑的な態度を取っていても儲からない。したがって、ギンコの本当の価値を正確に測ることは難しい。結局のところ、1ビットコインは4万8500ドルをつけ、テスラの時価総額はフィードの10倍以上に相当する約7000億ドルだ。「ある分野の企業について確信を持って語れても、その企業の本当の価値を知ることは非常に難しいのです」と言うのは、ケンブリッジでバイオスタートアップ企業を育成するフラグシップ・パイオニアリング(Flagship Pioneering)のダグ・コール博士だ。ギンコのように「新しい市場を創造する」ような企業であれば、なおさらだ。
ギンコは、目立った製品の発表はせずにストーリーを語ることで資金調達に成功しているため、幻想が崩れたときには株価が暴落するのではないか、と疑う人もいる。2021年8月初め、合成生物学の競合企業であるザイマージェン(Zymergen)が、生物学を駆使して作った主力製品の折り畳み式携帯電話用フィルムの発売が少なくとも1年は遅れると発表した際には、株価が1日で75%も急落した。また、「バイオファクチャリング(biofacturing)」の時代が来ると豪語していたジョシュ・ホフマンCEOも辞任した。
ケリーCEOは、ギンコは意図的に一つの製品に集中しないようにしていると電話で語った。その代わり、ギンコは他の企業が利用可能な科学技術「プラットフォーム」なのだと話す。ケリーCEOはギンコについて、プログラムされた細胞を販売するオンラインのアップストア(App Store)のようなものだと言う。ケリーCEOによれば、アップストアと同様に、ギンコも最終的には顧客の収益からロイヤルティや株式の形で利益を得るのだと言う。バイオ製品を製造して販売するのは顧客自身ということだ。
「ギンコは製造企業でもなければ、製造企業になりたいとも思っていません」と、ケリーCEOは言う。「バイオテック業界の関係者は、製品を作ることが重要だと洗脳されているのです」。
スーパー・ユニコーン
ギンコは、生物学研究の「標準化」に魅了されたマサチューセッツ工科大学(MIT)のコンピューター・エンジニアであるトーマス・ナイトと、ケリーCEOを含む4人の大学院生によって2008年に設立された。設立当初は、政府からの助成金とMITが廃棄した機器でしのいでいた。「あったのは15万ドルとレンタルしたトラックでした」と、ケリーCEOは振り返る。当時は、輸送用燃料の製造を夢見る「シンバイオ(合成生物学)」企業への資金提供が盛んな時期であり、ギンコはほとんど目立たなかった。
運命が一変したのは、2014年にシリコンバレーの起業家支援プログラム「Yコンビネーター」に参加したことだった。生物学の夢をコンピューティングになぞらえて西海岸風に売り出したギンコは、投資家から次々と資金を投入され、「スーパー・ユニコーン」への道を歩みはじめる。ピッチブック(PitchBook)によれば、利益のない非公開企業だったギンコに対する投資家たちの評価は、2017年までに10億ドル、2019年までに48億ドルになったという。
「ギンコは、Yコンビネーターの選考を通過した最初のバイオテック企業です」と話すのは、かつてギンコと同じビルでスタートアップ企業サンプル・シックス(Sample6)を経営し、現在はケック大学院研究所で生体処理工学教授を務めるマイケル・コエリスだ。「Yコンビネーターは、ギンコが資金調達できるようにストーリーをパッケージ化することを教えたのだと思います。それはスキルです。多くの科学が資金を得られないのは、ストーリーがないからです」。
ケリーCEOのセールスマンとしての才能は広く認められており、ギンコは科学用語で飾り立てられていることで有名だ。2020年からは、合成生物学の無限の可能性について「創造的なストーリーを語る」ことを目的とした「グロウ・バイ・ギンコ(Grow by Ginkgo)」という高級雑誌の発行を開始した。最新号では、こすると絶滅した花の香りがするスクラッチ・カードについて掲載されていた。
「新進のバイオテック企業が、事業に関係ない雑誌風の記事を書く人間を雇う余裕があるというのは、良いご時世である証でしょう」と皮肉を言うのは、バイオテック株に精通し、ツイッターで活躍するディル …
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