パンデミック下での異例の開催、東京オリンピックは大きな賭け
東京オリンピック・パラリンピックが間もなく開幕する。東京都に4度目の緊急事態宣言が出される中でのオリンピックは、主催者が最善を尽くしたとしても、日本国内の新型コロナ感染状況に影響を及ぼすことは避けられないだろうと専門家らは見る。 by Mia Sato2021.07.16
それは茨城県の路上をオリンピックの聖火リレーが通過した夜のことだった。大拡散された動画に映っているのは、聖火ランナーが沿道に並ぶ観客の前をゆっくりしたペースで走っている様子だ。すると、通り過ぎる聖火に向かって観客にまぎれた女性が水鉄砲を発射する。
「トーチの火を消せ!東京オリンピック反対!」と女性は叫び、警備員が駆け付ける。
7月23日から開催される東京オリンピックとパラリンピックの背景にあるのはこのような状況だ。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染者が増加していることから、東京都にはパンデミックの発生以来、4度目となる緊急事態宣言が出された。日本のワクチン接種率はまだ低いため、感染者数の増加がますます悩ましい問題となっている。接種が完了しているのは、人口のわずか18%に過ぎない。
にもかかわらず、国際オリンピック委員会(IOC)は開催に向けて強気の姿勢を貫いている。オリンピック開催には、すでに数千億円ものコストがかかっており、新国立競技場だけでも1500億円の費用が投入されている。その上、IOC、日本、各地域の主催者、放送局にとっては数千億円の潜在的収益がかかっているのだ。
収束の見えない世界規模での健康危機、莫大な額の金、そして「賭け」を成功させようとする政府。東京では過去前例がないほど激しい力の衝突が起きている。そして、オリンピック開催にあたって厳格なルールを新たに設けても、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を巡る日本の状況は悪化するかもしれないと、専門家は懸念している。
アスリートの安全を守る
東京オリンピックとパラリンピックでは、10万人近いアスリートやスタッフ、その家族らが日本に入国することが予想されており、主催者らは関係者の安全を守るために最善を尽くすとしている。
IOCに対して東京大会のための新型コロナ緩和策の助言をする独立諮問委員会のブライアン・マクロスキー委員長は、オリンピックの開催を巡る懸念を認めている。ウイルスが広まるリスクを低減させるため、選手やスタッフ、その他の関係者は注意深く監視されることになるとマクロスキー委員長は言う。
「目標は、東京で感染者を1人も出さないことではありません。個々の感染がクラスター化したり、感染が拡大したりするような事態を阻止することを目指します」。
選手、スタッフ、運営関係者は、開催期間中さまざまな間隔で検査を受ける。たとえば、オリンピック村の滞在者は毎日検査を受け、選手と濃厚接触する日本人スタッフは、交通整備スタッフより頻繁に検査を受ける、といった具合だ。オリンピック村では感染封じ込めのために接触追跡システムが使用されるとマクロスキー委員長は言う。日本への入国者全員に接触追跡アプリのダウンロードが要請され、選手とメディア関係者は携帯電話のGPS追跡をオンにするよう求められる。運営当局は、位置情報のデータは新型コロナウイルスの感染があった場合のみ使用するとしている。
大会が近づくにつれ、対策はますます厳しくなっている。他国からの観客は数か月前に受け入れの断念が決定し、今月に入ってからは東京と首都圏の会場では観客を一切受け入れないと発表された(日本版注:北海道と福島でも無観客開催が決まった)。
「空気感染はオリンピック関連イベントそのものだけの問題ではありません。イベントに関わるすべてのホテルやレストラン、移動手段の問題でもあるのです」
——ヴァージニア工科大学のリンジー・マー教授
マクロスキー委員長によれば、新型コロナウイルス感染症ほどの規模ではないものの、公衆衛生上の脅威がある中でオリンピックを実施した例はこれでにもあるという。自身が2012年のロンドン五輪のためにIOCに助言をした際、主催者側はSARS(重症急性呼吸器症候群)のパンデミックが起こる可能性を考慮していたと言う。2016年にブラジルで開催されたリオ五輪では、ジカ熱に対する懸念があった(大会後、WHO=世界保健機関は選手や観客の感染例は報告されていないと発表した)。
東京オリンピックでは、選手、スタッフ、ボランティア、報道関係者向けに行動ルールを定めたいくつかの「プレイブック」をIOCが公開している。
だが、厳しいルールがあっても、大会では必然的に、通常時には起こらないやり方で多くの人が行き交い、交流を持つことになる。
ウイルスの空気感染に関する第一人者であるバージニア工科大学のリンジー・マー教授(土木環境工学)は、「空気感染はオリンピック関連イベントそのものだけの問題ではありません。イベントに関わるすべてのホテルやレストラン、移動手段の問題でもあるのです」。
プレイブックではマスク着用と社会的距離の確保が強調されてはいるが、マー教授は、指導内容が科学的事実と一致しない場面として食事を挙げている。一方、IOCはオリンピック村の食堂の座席数を減らし、アプリを通じて混雑状況の情報を提供するほか、座席間にアクリルパネルを設置するとしている。
「アクリルパネルを設置したレストランでも、大規模感染が何件も起こっています」とマー教授は言う。「食事はテイクアウトのみとするのが最善の策でしょう」。
波及効果
専門家らは、最善の努力を尽くしても、オリンピックが日本の新型コロナウイルス感染状況に波及効果を及ぼす恐れがあると述べている。東京都は緊急事態宣言下にあるものの、全ての学校や飲食店、その他の公共施設が一律に閉鎖されているわけではない。この緊急事態宣言はむしろ本質的には、無用な外出を控えましょうと人々に要請しているに過ぎず、罰則や強制力はない。
ワシントンDCのシンクタンクであるウィルソン・センター(Wilson Center)」の地経学担当副部長である後藤志保子は、「多大なリスクがあることを知りつつ、国内の人々が集まることを奨励する大規模な催しを複数実施し、海外からも参加者を受け入れて新型コロナウイルスの感染が増加するのは、人々の日常生活のために感染が増加するのとは訳が違います」と語る。
水鉄砲の抗議者のように、日本国内の反発はますます強まっている。5月には、新型コロナウイルスの感染者が増加する中、東京都の医師6000人を代表する団体が、東京の医療システムは患者の流入に対応できないとして、オリンピックの中止を求める意見書を提出した。一部の世論調査では、80%以上の日本人がオリンピックの開催を望まない(中止または延期)とする結果が出ている。
東北大学の押谷仁教授(ウイルス学)は、日本の新型コロナ対策アプローチ「3密(英語では3C、密閉・密集・密接)」を考案した人物だ。国内で大会が開催される場所は特にリスクが大きいと言う。「過去の感染拡大期には、例外なく、東京から他の地域へとウイルスが広がりました」。東京や首都圏の会場は観客の受け入れを取りやめる一方で、宮城会場と静岡会場では有観客での開催が予定されており、東京からのスタッフやボランティアもそれぞれの地域を訪れることになると、押谷教授は記している。
IOCはオリンピックに参加する旅行者に対してワクチン接種を義務付けていないが、マクロスキー委員長は各国の五輪委員会のデータから見て、各国代表団のメンバーの85%がワクチン接種を済ませるだろうと予想している。しかし、日本国内のワクチン接種率の低さが懸念を掻き立てている。他の国が接種を進めていた数カ月間、日本のワクチン計画は実質的に出遅れていた。押谷教授によると、高齢者の多くがまだ2回目の接種を受けていない。こうした状況は、新型コロナウイルスが拡散する条件を整えてしまう。
「東京では40(歳)代、50(歳)代の重症例が増えていますが、その大多数は2回のワクチン接種を終えていない人たちです」と、押谷教授は言う。
「賭けに挑む」日本政府
では、そもそもなぜオリンピックを開催するのだろう。なぜ中止しないのだろうか。IOCと東京都が結んだ契約における中止に関する条項を概説したBBCによる分析は、大会を中止する権限がIOCにしかないことを示している(ただし、理論的には日本が契約を破棄することも可能だ)。大会を中止すれば、経済的損失の可能性に加え、国際社会によくないイメージを広めてしまうことにもなる。
ウィルソン・センターの後藤は、日本はポストコロナの世界で初の大規模国際イベントを成功させることで得られる「ソフト・パワー」に投資したのだと語る。もちろん、オリンピックが成功すれば、年内に実施される選挙で政権与党の自民党に有利に働くことは言うまでも無い。
「それが、日本政府が賭けようとしている最良のシナリオなのです」と後藤は言う。
しかしオリンピックは、パンデミックの有無に関わらず、過去の開催都市にとって大きな負担となってきた。東京大会が大きな注目を浴びる中、後藤は、今後各国のオリンピック開催への熱意が薄れていくのではないかと考えている。開発途上国は自国をアピールする機会としてオリンピックをとらえ続けるだろう。しかし他の国々はより消極的になるかもしれない。
「経済が成熟すれば、消費拡大やインフラ投資の促進、愛国心の高揚などにオリンピックが実際に寄与する程度は限られてきます」と後藤は言う。「ホスト国としてオリンピックを開催することの費用対効果は何なのでしょうか」。
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この記事は、ロックフェラー財団が支援するパンデミック・テクノロジー・プロジェクトの一環として執筆されたものです。
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- サトウ・ミア [Mia Sato]米国版 パンデミック・テクノロジー・プロジェクト担当記者
- MITテクノロジーレビューのパンデミック・テクノロジー・プロジェクト担当記者として、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策や追跡に使われるテクノロジーを取材。以前は非営利のテクノロジー専門ニュースサイト「ザ・マークアップ(The Markup)」でオーディエンス・エンゲージメント編集者を務めた。これまでに執筆した記事はヴァージ(The Verge)、アピール(Appeal)、シカゴ・マガジンなどに掲載されている。