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よりよい「塩」で世界を救う
あるインド人研究者の闘い
Natalie Andrew
人間とテクノロジー Insider Online限定
One man's crusade to end a global scourge with better salt

よりよい「塩」で世界を救う
あるインド人研究者の闘い

ヨウ素を添加した塩の普及によって、世界のヨウ素欠乏症は激減した。ヨウ素添加塩を途上国に広めたインド人研究者は今、鉄を塩に添加することで、世界から貧血を撲滅させようと奮闘している。険しい道のりを経て開発された鉄分強化塩は、公衆衛生問題を解決できるだろうか。 by Anna Louie Sussman2021.06.28

トロント大学のヴェンカテッシュ・マナー教授と彼の兄弟は、子どもの頃、家族が営む製塩所を遊び場にしていた。他の子どもたちが雪の降り積もった丘をそりで滑り降りるように、幼きマナー教授たちは天日干しされている塩の山を滑り降りたものだった。

インド南部の港湾都市トゥーットゥックディにある製塩事業は、マナー教授の高祖父が始めたものである。何世代にもわたり、男たちは塩水の中に立ち、浅い海水プールにできた厚い塩の層を木製のこてを使ってかき集め、それを高く積み上げて乾燥させ、結晶化させてきた。

マナー教授は数年間、米国に留学し、それから巨大な自動採塩機を導入している製塩企業で働いた。そして、身につけた機械に関するノウハウを活かして大規模で近代的な製塩所をチェンナイ近郊に建設するために、1972年にインドに戻った。その後、1980年代初頭に、甲状腺機能低下症から学習障害に至るまでさまざまな問題を引き起こすヨウ素欠乏症の解決に、世界の注目が集まり始めた。マナー教授は製塩事業を継続しながら、ユニセフと世界保健機関(WHO)のコンサルタントを務めた。マナー教授は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの国々を訪れ、先進国では数十年前から一般的に実施されていた塩へのヨウ素添加を促した。

マナー教授がコンゴ民主共和国に到着したとき、WHOの代表者は塩の生産地さえ知らないことが判明した。「彼らは情報をまったく持っていなかったのです」とマナー教授は振り返る。マナー教授は、車で地元の市場を訪れて、塩を販売している店主たちに塩の入手先を調査してまわった。そうして塩のサプライチェーンを再構築し、コンゴ民主共和国の塩生産者を見つけ出し、ヨウ素について話した。同様の任務を60か国以上でこなしたとマナー教授は言う。現在では、世界で推定約60億人がヨウ素添加塩を入手できるが、これは少なからずマナー教授の功績によるものだ。

しかし、マナー教授は初期の頃から、多くの人が十分に摂取できていない別の成分、すなわち「鉄」にも関心を持っていた。世界で16億人以上が患っている貧血の原因の一つは鉄分不足である。貧血は、南アジアとサハラ以南アフリカで特に多く見られる。インドだけでも、生殖可能年齢の女性の半数以上、さらに5歳未満の子どもの60パーセント近くが貧血を患っている。貧血の症状としては、めまい、母子の健康状態の悪化、認知機能の低下、さらにインド人が「血の不足」と呼ぶ倦怠感などがある。

マナー教授は、世界のあらゆる地域でほぼ毎食消費されている塩こそが、公衆衛生に大きな影響を与える少量の鉄を供給する最良の手段ではないかと考えた。「私は1970年代から、鉄分不足に大きな関心を寄せていました」とマナー教授は話す。「ヨウ素の添加が推進されていたので、鉄は二の次になっていたのです」。

最終的に、マナー教授は、鉄分強化塩で貧血を克服することを人生の使命に加えた。すでにヨウ素が添加されている塩に鉄を加えると、いわゆる「二重強化塩(DFS)」になるが、この技術的課題は、ヨウ素添加よりも桁違いに難しいことが分かった。メーカーや一般の人々にDFSを採用してもらうには、また別の問題がある。しかし、二重強化塩の取り組みが成功すれば、食塩にさらに多くの必須ミネラルを加えることができ、地味な食卓塩を、世界が自由に使える最も強力な公衆衛生ツールの1つに変えることになると、マナー教授と彼の後援者たちは期待している。

子どもの頃に朝食のテーブルで、なぜボウルに入ったシリアルには、チアミン、ナイアシン、リボフラビンなどの理科の授業で習うような成分が1日の推奨摂取量に足りるほど含まれているのか、不思議に思ったことはないだろうか。そんな人は、一般的な食品に微量のミネラルやビタミンを補った「微量栄養素の強化」の驚異を経験済みだ。

微量栄養素の強化は、特定の集団を対象とすることもできるし(栄養強化された朝食用シリアル、子ども向けココア、乳児用調製粉乳など)、すべての人を対象にすることもできる。ヨウ素を添加した塩、ビタミンAとDを強化した牛乳、強化小麦粉などがその例だ。

特定の微量元素が不足すると共通の病状が引き起こされるという考え方は、19世紀に栄養学者によって確立された。ヨウ素不足は、甲状腺腫(主要なホルモンを合成するためにヨウ素を必要とする甲状腺の炎症)と、発育の遅れや認知機能障害の古称である「クレチン症」に結びつけられた。また、亜鉛不足は子どもに下痢を引き起こす。栄養素の不足が原因で起こる他の病気も特定され、壊血病にはレモン、くる病にはタラの肝油、脚気には肉や牛乳など、特定の食品が治療薬として処方された(栄養強化の最初期の例としては、1873年にフランスのパン職人が、入院中の子どもに食べさせるパンにタラの肝油を入れたという記録がある)。

1906年には、ケンブリッジ大学のフレデリック・ガウランド・ホプキンズ(故人、当時は王立協会フェロー)が、生物の健康に影響を与える「想定外の栄養因子」を解明しようと同僚たちに呼びかけた。ホプキンズは1912年に「補助栄養素」に関する最初の論文を発表した。それから現在ビタミンと呼ばれている物質の化学構造を科学者が解明するまで、数十年を要した。

一方、第一次世界大戦中に米陸軍当局は、徴兵のために招集された若い男性の間にあるパターンを見つけた。首の正面にある甲状腺の目立った腫れによって識別できる甲状腺腫は、米国中央部の男性によく見られ、沿岸部の被徴兵者には少なかった。塩のヨウ素化に関する医学史には、「米国徴兵制度規制によると、ミシガン州北部では、他の医学的疾患よりも、大きな中毒性甲状腺腫のために兵役資格を剥奪された男性が多かった」という記録がある。継続的な調査研究では、最終的にミシガン州の一部の地域で64パーセント以上の中毒性甲状腺腫の有病率が確認された。

米国の沿岸部の人たちには、なぜ甲状腺腫が少なかったのだろうか。海水にはヨウ素が含まれており、その一部は蒸発して大気中に放出され、雨となって地上に戻る。したがって、沿岸部の土壌は内陸の土壌よりもはるかにヨウ素が豊富であり、海岸近くで栽培された植物はヨウ素レベルが高くなる。沿岸部の食事でより一般的である海藻や魚介類にも、栄養上の違いを生むのに十分な量のヨウ素が含まれている。

フランスの3つの州では、1860年代にはすでに当局によるヨウ素錠剤の配布が始まっていた。1922年、内陸国のスイスが世界で初めて組織的に塩のヨウ素化を実施した。1924年には、シカゴを拠点とするモートンソルト(Morton salt)が全米でヨウ素添加塩の販売を開始し、最終的には米国の家庭の9割がヨウ素添加塩を使用するようになった。

1990年に開催された国際連合の「子どものための世界サミット」でようやく、世界中でヨウ素欠乏症を撲滅するという目標が設定された。この取り組みは大成功を収め、ヨウ素欠乏に分類される国の数は、1990年の110か国から2015年には25か国にまで減少した。また、牛乳にビタミンDを添加することで「くる病」がほぼ撲滅され、小麦粉にナイアシンなどのミネラルを添加することでペラグラ(ナイアシン欠乏症)が撲滅された。ペラグラは、下痢、皮膚炎、認知症などの症状があり、1920年代後半のピーク時には年間7000人もの米国人が死亡していたが、1950年には事実上存在しなくなった。

こうした成功例が次々と出てきた一方で、貧血は顕著な例外だ。貧血の原因は、寄生虫の感染やその他の栄養不足など数多くあるが、最も多いのは鉄分不足であり、世界の貧血患者の約半分を占める。貧血は衰弱と認知機能の低下をもたらす。妊娠中の女性の場合は、葉酸欠乏症と並んで、通常は致命的となる無脳症のような先天異常の可能性が高まる。

経済学者は、鉄欠乏性貧血の発生率が高いと、個人の生産性が40パーセントも低下し、国内総生産(GDP)が1パーセント以上も減少するというマクロ経済的な影響もあると考えている。大規模な社会的介入の費用対効果分析を実施しているコペンハーゲン・コンセンサスセンター(Copenhagen Consensus Center)によると、塩のヨウ素化にかかる費用は1人当たり年間5セント程度で、これに1ドル費やすと、医療費の節約や経済生産性の向上で30ドルもの利益が得られるという。鉄分強化の場合は1ドル費やすと9ドルの利益があるとされ、ヨウ素化ほど劇的ではないものの、それでもかなり大きな効果が期待できる。

インドで貧血が蔓延している理由の一つとしては、約2億人のインド人が極貧状態にあり、宗教上の理由や単に手が届かないという理由で、多くの人が滅多に肉を食べないか、まったく食べないことが挙げられる。多くのインド人が主食とする穀物と豆類は、鉄の吸収 …

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