ブルース・ローゼンブラムが「アップル II」の電源を入れると、ピッと高い音が鳴り、続いてフロッピーディスク・ドライブがカタカタカタと音を立てた。カチカチとキーボードを叩くと、サンヨー製の12インチモニターが光を発し、縦横16×16の緑色の格子状のマス目を映し出す。現れたのは「グリッドマスター(Gridmaster)」のプログラム。このプログラムは世界初の中国語フォントの一つを開発するために、ブルース・ローゼンブラムがベーシック(BASIC)言語で書き上げたものだ。彼は「サイノタイプ(Sinotype) III」という、中国語の入出力が可能な世界初のパソコン実験機に向けてフォントを開発していた。
ローゼンブラムがグリッドマスターを開発したのは、1970年代後半から1980年代前半のことだ。その当時、中国製のパソコンはまだ存在していなかった。そこで、ローゼンブラムのチームは「中国語対応」のパソコンを作るために、アップルIIのプログラムを中国語で操作できるように作り直していたのだ。そのためにやらなければならないことは、数え切れないほどあった。アップルIIのDOS 3.3では中国語の入出力はまったくできなかったため、ローゼンブラムはオペレーティング・システム(OS)をゼロから開発する必要があった。同様に、中国語のワープロもゼロから作り上げる必要があり、ローゼンブラムは数カ月間にわたって、ひたすら作業を続けた。
グリッドマスターは単純なプログラムだったかもしれない。しかし、何千もの漢字のデジタルビットマップを作り上げるには、デザイン上の大きな課題があった。実際、マサチューセッツ州ケンブリッジにあるGARF(Graphics Arts Research Foundation)が開発したサイノタイプIIIのためにフォントを開発する作業は、サイノタイプIII自体のコーディングよりもはるかに長い時間を要した。フォントがなければ中国語の文字を画面に表示することも、ドットマトリクス・プリンターで印刷することもできない。
漢字の字体をデザインするとき、デザイナーはビットマップを構成する256(16×16)のピクセル(画素)1つ1つについて塗りつぶすか否か決めなければならない。しかもこの作業を、フォントに収録する漢字すべての数だけ繰り返す必要があった。ビットマップとは、グリッド(格子線)上に並んだピクセル群を使ってシンボルや画像を形作るデジタル画像の表現形式だ。一般にJPEGやGIF、BMPなどのファイル形式で保存できる。数千種類の漢字それぞれに対して256回の決定が必要だったため、文字通り数十万に上る決定を繰り返すことになり、開発には2年以上かかった。
ブルース・ローゼンブラムがグリッドマスター(「今思えば、控えめに言っても使いにくい」と彼は語った)を開発したことが、ブルースの父であるルイ・ローゼンブラムとGARFに、フォント開発を臨時雇用者に委託することを可能にさせた。アップルIIがあり、フロッピーディスクからグリッドマスターを起動できれば、臨時雇用のデータ入力担当者は遠隔地で新しい漢字ビットマップを作成し、保存できた。漢字ビットマップが作成・保存されると、ローゼンブラム父子は、ブルースが設計した第2のプログラムを使ってビットマップとそれに対応する入力コードをシステムのデータベースに入力することで、サイノタイプIIIに漢字ビットマップをインストールできた。
サイノタイプIIIは市販されることはなかった。にもかかわらず、この中国語のビットマップフォントの開発など、サイノタイプIIIの開発のために必要だった骨の折れる作業は、工学的難問を解決するための大変な国際努力の中核と言えるものだった。その難問とは、世界で最も話者が多い言語の一つである中国語をいかにしてコンピューターで処理するかということだ。
欧米でコンピューターとワープロが市場に出回り …