クリスパー(CRISPR)によるゲノム編集は、偉業につながる可能性がある有望な技術だが、危険をはらんでいる——。それが、クリスパーについて語るときの決まり切ったストーリーだった。その危うさが現実のものとなったのは、MITテクノロジーレビューのアントニオ・レガラード編集者が2018年11月、中国の若き科学者であるフー・ジェンクイ(賀建奎)がクリスパーを利用してヒト胚を編集したことを初めて報じたときだった。ゲノム編集された胚からは、少なくとも3人の子どもが誕生した。
「クリスパー・ベビー」のエピソードは今や、遺伝子編集を語るストーリーにおいて欠かせない1章となっている。ジェニファー・ダウドナ(カリフォルニア大学バークレー校教授)とエマニュエル・シャルパンティエ(ウメオ大学教授)が2020年、クリスパー技術の発明によってノーベル賞を受賞したときも、ほぼ全てのニュースがフーについて言及した。今世紀最大の科学的偉業のストーリーで、フーは悪役を演じているのだ。
ストーリーテリングは重要だ。過去がどのように記憶されるかだけでなく、未来がどのように展開するかがそれによって決まるからだ。
フーの計画は、科学がどのように進化し、どのように英雄が作られるかというストーリーによって形作られたものだった。そのうちの1つが語られたのが、2017年1月、カリフォルニア大学バークレー校のジェニファー・ダウドナ教授が開いた非公開の小さな会合だった。フーも招待されていたこの会議で、米国のある有名大学の上級科学者は次のように語った。「大きなブレークスルーは多くの場合、ひとりあるいは数人の科学者、つまり科学分野におけるカウボーイによってもたらされます」。
私自身、この会合に出席しており、そこで初めてフーに会った。私たちはその後、数カ月にわたって定期的にメモを交換していたが、次にフーに会ったのは、2018年に香港で開催されたヒトゲノム編集国際サミットだった。レガラード編集者が計画前に公開することをフーに迫った2日後のことである。サミットの後、フーは姿を消した。フーが当時勤めていた大学のキャンパスのゲストハウスで、中国当局の監視下に置かれたのだ。
その1カ月後、私に電話をかけてきたフーは、自分の口から説明したいと言ってきた。フーは、クリスパー・ベビーのエピソードの詳細な背景と共に、自身のプロジェクトと、科学者や起業家、ベンチャー・キャピタリスト、政府関係者などのプロジェクト支持者のネットワークの動機付けとなった事柄について説明してくれた。そうした中、2017年のバークレーでの会合、とりわけ「カウボーイ・サイエンス」の発言が極めて重要な意味を持っていたことが分かった。「あの発言に私は強く影響を受けました。ガラスを打ち破る人が必要なのです」。
2017年の会合の後、フーは、ワクチンの最初の開発者であるエドワード・ジェンナーから、体外受精(IVF)の先駆者であるロバート・エドワーズまで、最終的に英雄と呼ばれた科学的リスクテイカーたちの伝記を読み始めた。2019年1月、フーは政府の調査官宛てに次のように記している。「私は自分のやっていることが、人類の文明の進歩を促進すると固く信じています。歴史がそれを証明してくれるでしょう」。
2017年の会合のメモを読み返した私は、刺激的な発言の前半しかフーが覚えていないことに気づいた。発言は次のように続いていた。「今起きていることはカウボーイ・サイエンスです。(中略)ですが、それが進むべき最良の道かどうかは分かりません。歴史から教訓を得て、次はよりよい道を選ぶべきです」。
歴史から何を学ぶのか?
ケヴィン・デイヴィーズが執筆した『人類の編集(Editing Humanity)』は、クリスパー・パズルの解明に関わった驚くほど多種多様な実験や研究室を追跡し、詳述したものだ。遺伝子学者から作家・編集者に転向したデイヴィーズは、豊富な情報を巧みな語り口で盛り込み、クリスパー発見のストーリーを極めて魅力的に描いている。クリスパーの商業化を取り巻く熾烈な競争や対立、巨額の資本について検証し、学術としての科学とバイオテクノロジー・ビジネスが交わる分野の複雑な事情を明かしている。
とはいえ、デイヴィーズの本は遺伝子編集ビジネスに重点を置いており、人間性の視点からの話が少ない。科学的発見と技術的イノベーションの分野だけが、未来が作られる場所であるかのように描かれている。
人間が遺伝子編集の対象以上のものとして最初に現れるのは、本の最終行である。「クリスパーの開発は、社会が追いつけないほどのスピードで進んでいます。どこまで開発を進めるかは私たちにかかっています」。一方で、こ …