新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染者に接触した人を追跡する数十本のアプリが世界中で公開され、さらに多くのアプリが公開の準備をしている(日本版注:日本政府は6月19日に公開すると発表)。しかし、アプリによる接触者追跡システムが効果的に機能するためには、何人の人が使わなければならないのか?ある数字が、何度となく取り上げられている。「人口の60%」という数字だ。
この数字は、MITテクノロジーレビューが「コビット・トレーシング・トラッカー(Covid Tracing Tracker)」で実施した調査でも、多くの公衆衛生当局が普及率の目標として掲げている。60%という数字は、4月に発表されたオックスフォード大学の研究が根拠になっている。だが、この数字に達した国は存在しないので、「曝露通知」テクノロジーは本質的に役に立たないとの多くの批判がある。
しかし、元となった研究を進めた研究者は、研究内容が大いに誤解されているという。実際には、はるかに低いアプリの普及率でも、新型コロナウイルス感染症の追跡にはきわめて有用な可能性があるとしている。
「有効性や普及率について、多くの誤解があります。(中略)アプリは普及率が60%に達した場合にしか機能しないというものですが、実際はそうではありません」。オックスフォード大学の研究チームの広報担当アンドレア・スチュワートはこう説明する。実際、「もっと低い普及率」で「接触者の保護効果が表れ始める」という。
オックスフォード・モデルは、以下のグラフのように普及率に関わらずある程度パンデミックを減速させることを示しており、「接触者追跡アプリは普及率がどのレベルにあっても効果がある」ことが分かる。
誤解はどこで起こったか
デジタル接触者追跡・曝露通知アプリは、後に新型コロナウィルス感染症と診断された人に接近していた人のスマホに通知する仕組みなので、広範囲を網羅するほうが好ましいのは確かだ。利用者が多いほど、リスクのある人が他人に感染させる前に自主隔離できる可能性は高くなる。
しかし、接触者追跡アプリについての多くの議論は、目標とするアプリ使用率60%を達成するのが、ほとんど不可能なほど難しいという一点に集中してきた。特に、子どもや高齢者、旧型の携帯電話を使う人など、必要なソフトウェアをダウンロードして使う気がないか、使えないかもしれない人がいるからだ。
多くのメディア報道やアナリストは、研究報告の次の一文だけを採り上げた。「我々のモデルは、人口の約60%がこのアプリを使用すれば、エピデミック(局地的な流行)を抑えられることを示しています」。
だが、決まったようにその後半部分は省略されてきた。「アプリの使用者がそれより少なくても、新型コロナウイルスの症例数と死亡者数は減少すると推定しています」。
実際には、オックスフォード・モデルは、批評家が懸念している多くの要素を考慮している。スマートフォンの全ユーザーの80%がアプリをダウンロードして使えば、他の防止策がなくても、それだけでパンデミックを十分に抑制できるだろうと論文で述べられている。スマホユーザーの80%とは、スマホを保有している可能性が低い人を除外すると全人口の56%に相当する数字だ。
アプリの普及率が低い場合、アプリだけで新型コロナウイルス感染症を打ち負かせないにしても、使用率が低いことと効果がないこととは同義ではない。アプリを使う人が少なければ、代わりに他の防止策や抑制手段が必要になると研究者は述べている。社会的距離戦略(ソーシャル・ディスタンス)、広範囲な検査、人手による接触者追跡、医療、地域閉鎖など、代わりとなるのは世界中ですでに採用されている多くの方法だ。
この研究を主導したのは、オックスフォード大学ナフィールド医学部で接触者追跡プログラムの共同指導者であり、英国政府の接触者追跡活動の独立科学顧問であるクリストフ・フレーザー教授である。フレーザー教授は、60%という数字自体が一人歩きしているようだ、と述べる。
「メディア報道のストーリーをコントロールするのがいかに難しいかを示していますね」(フレーザー教授)。
必要な普及率はどの程度か?
重要なのは、60%という仮定の修正だ。アプリに対する受け止め方は、各国がパンデミックや将来の感染症発生に対処する方法を策定するのに大きく関わってくる。アプリの普及率が60%を下回れば失敗という考えが広まれば、致命的な誤りにつながる可能性がある。
60%まではいかないにせよ、かなり高い普及率に達している国もある。アイスランドの使用率は約40%で、カタールやトルコなどはアプリの使用を国民に義務付けている。
研究チームはアプリの普及率が低くても有用であることは分かっているが、その普及率による違いが実際に何を意味するのかは必ずしも分かっていない。それでも、曝露通知が接触者に届くたびに、命が救われる可能性がある。
フレーザー教授のチームは、アプリの普及率が低ければ得られる恩恵はわずかかもしれないと想像していた。だがシミュレーションによると、思っていたよりもはるかに高い恩恵が得られることが分かったという。
「アプリの使用率が低い場合はあまり効果がないだろうと予想されていました」とフレーザー教授は話す。「もし、10%の人がアプリを使ったとしたら、2人の接触が検知される可能性は10%の10%、つまり1%となり、ほんのわずかな可能性です。シミュレーションによって実際はそうではないと分かりました。我々は、アプリの使用率が高まることで実際に恩恵が得られる理由を理解しようと取り組んでいます」。
また、フレーザー教授はアプリが本来の狙いどおりに機能しているかを、継続的に監視し、監査することも提唱している。
新型コロナウィルス感染症をアプリだけで抑制できなくても、デジタルによる接触者追跡は、将来の感染症の発生に対する戦略の一環になるだろう、とフレーザー教授は予想している。新型コロナウィルス感染症の抑制に何年もかかるのであれば、そして今後数年のうちに他のパンデミックが発生すれば、今回学んだ教訓は報われるだろう。
フレーザー教授は「公衆衛生とは信頼を築くことだ、と我々は知っています」と話す。「では、データが永久に共有されると知っている人々が信頼できる環境を、どのように作ればよいでしょうか? 人々はデジタル空間で見られる、データの悪用と同じことが起こらないのかと恐れています。データの建設的な使用を奨励する一方で、どのように悪用を止めたらよいでしょうか? これは明らかに重要な分野です。情報を共有すれば、良い方向へ進む力は増しますが、それにはフレームワークが必要です」。
(関連記事:新型コロナウイルス感染症に関する記事一覧)