「国民総カメラマン」時代に警察の暴行を止められない理由
白人警察官によって黒人男性が暴行され、死亡した様子は、複数のカメラによって映像として記録されていた。誰もが携帯電話を持ち歩き、いつでもカメラを向けられるようになっても、それが暴力の抑止につながるわけではない。 by Ethan Zuckerman2020.06.11
ミネアポリスの警察官らによるジョージ・フロイド殺害の様子は、1度ならず5~6回も撮影されていた。フロイドが意識を失った後も警察官が数分間にわたって首と背骨を圧迫し続けたのはなぜなのか。真相究明が待たれる中、フロイドが偽の20ドル札を使ってたばこを買ったとされるカップ・フーズ(Cup Foods)の監視カメラ映像が公開された。フロイドが1人の警察官に殺されるのを、周りの警察官3人がただ立って見ているという映像とともに、フロイドを地面に押し付けるのを止めるよう警察官らに懇願していた目撃者たちが携帯電話で撮影した映像も公開されている。フロイドを殺害したデレク・ショービン元警察官は過去に17件の苦情を申し立てられており、2件の発砲事件に関わっていたにもかかわらずパトロールをしていたことから、公判では警察官らが着用していたボディカメラの映像が弁護側の頼みの綱になるだろう。
だが、映像は、フロイドの命を救えなかった。そしてそのどれもが、フロイドを殺した犯人を有罪にする証拠にならない可能性がある。
ショービン元警察官はそのことを知っていた。17歳のダーネラ・フレージャーが撮影した映像からは、ショービン元警察官が彼を凝視し続けていることが分かる。ショービン元警察官はフレージャーが撮影していることに気づいており、映像がフェイスブック・ライブで配信され、視聴者に恐怖を与えていることを知っていたのだ。4年前、セントポール近郊で、ジェロニモ・ヤネズ元警察官がフィランド・カスティールを射殺したときも、車に同乗していた交際相手がフェイスブックに映像を流していた。ヤネズ元警察官の警察車両のダッシュボード・カメラも、カスティールの体に7発の銃弾が撃ち込まれる場面を記録していた。それでも、ヤネズ元警察官は無罪になった。
ここ数年のボディカメラの着用義務の広まりと、かつてないほどのソーシャルメディアの普及を経て、情報は権力を伴わなければ意味をなさないことが明らかになった。
カスティールが亡くなった後、私はMITテクノロジーレビューに寄稿した。「ウェアラブル・コンピューティングの父」と呼ばれる発明家のスティーヴ・マンが提唱した、「下からの監視(sousveillance)」についての記事だった。市民によって制御されたネット接続のカメラを、権力の責任を問うために使うことができるというアイデアだった。
2014年にエリック・ガーナーがニューヨークのダニエル・パンタレオ元警察官に窒息死させられる様子は、その場に居合わせた人によって撮影されていたものの、パンタレオ元警察官は起訴されず、殺害の様子を撮影していたラムジー・オータが逮捕される結果になった。にもかかわらず、私は「携帯電話のカメラの普及と、ペリスコープ(Periscope)やユーチューブ、フェイスブックといった映像ストリーミング・サービスの組み合わせが、警察の過剰な暴力を市民が抑制するための舞台になるのではないか」という希望を綴っていた。
だが、私は間違っていた。
私たちが考える監視(surveillance)についての大部分は、フランスの哲学者ミシェル・フーコーに由来する。フーコーは英国の改革者ジェレミー・ベンサムが提唱した、パノプティコン(panopticon )あるいはインスペクション・ハウス(Inspection-House)と呼ばれる、すべての独房が中央の監視塔から監視可能な刑務所のアイデアを考察した。ベンサムは、誰かに見られている可能性があるというだけで、囚人の悪行を防止できると考えた。フーコーは、常に監視されているということを知っていることが、体刑を受けるという脅威以上に、自分自身の行動に抑制を強いることであり、それが現代社会における「政治的技術」と権力の主たるメカニズムであると述べている。
下からの監視(sousveillance)に寄せた期待も、同様の論理に基づくものだ。警察官がボディカメラと市民の携帯電話の両方から監視されていることを知っていれば、警察官は自らを律し、不必要な暴力を行使することもないだろうというわけだ。これは良い理論だが、実際には機能していない。2017年にワシントンDC市役所が実施した大規模研究では、市長の指示によって1000人以上の警察官にボディカメラを着用させ、別の1000人以上の警察官にはカメラなしで職務に当たらせた。研究チームは、カメラの着用が取り締まりの向上、実力行使の減少、市民からの苦情減少などに関連があるという証拠が見つかることを期待した。だが、研究チームは何も見つけることができなかった。監視されていると知っている警察官と、そうではないと知っている警察官の行動の間には、統計的に有意な差は見られなかった。さまざまな国における、ボディカメラの着用に関する10件のランダム化比較試験の結果を分析した別の研究には、分かりやすく「ボディカメラの着用は警察官に対する攻撃を増加させ、警察による実力行使を減少させない」というタイトルが付けられている。
ワシントンDCが実施した大規模研究の結果を見て、一部の学者はカメラが警察官の暴力行為を抑止しないのであれば、少なくとも映像が事件後の責任追及に寄与することを期待した。この点でも、ボディカメラが期待するような効果を発揮するケースはほとんどない。1コマずつ慎重に映像を分析してみれば、ほとんどのケースで被害者は武器を所持しておらず、警察官は無害な物体を武器と勘違いしていることが分かるが、弁護側は映像を通常の速度で再生し、警察と容疑者の間の緊迫した様子や、恐ろしく、スピーディーな展開を訴えるからだ。1989年のある最高裁判決では、警察官が自らの生命または安全性が危機に晒されているという「客観的に合理性」のある恐怖を感じた場合、殺傷力の行使は正当化されることが示されている。ボディカメラや現場に居合わせた人々の携帯電話の映像は、警察官による過失を明らかにするのと同じくらい、「合理的な恐怖」という弁護側の主張を強化するものとなっている。
これらのことから明らかになったのは、映像は重要だが、権力も重要だということだ。ベンサムのパノプティコンは、刑務所の看守が囚人の非行を発見した場合、囚人に罰を与えられる権力を持っているからこそ機能する。だが、看守の行動の透明性が確保され、それを見ている全ての人間から評価を受けるというパノプティコンに対するベンサムのもう1つの希望が実現することはなかった。米国では、2005年から2014年にかけての10年以上の間に、警察によって年間1000人以上が殺害されているにもかかわらず、殺人または故殺罪で起訴された警察官はわずか48人にすぎない。
フレージャーを凝視していたショービン元警察官は、このことを知っていた。米国の法執行機関で働いていて知らないというのはありえない。警察官による権力の濫用の責任を問うための機関や制度よりも、内務調査室や公務員職務保護、警察組合、「合理的な恐怖」など、自らの行動に対して法的責任を問われている警察官を守る機関や制度の方がはるかによく機能している。
カメラの普及それ自体が、有色人種に対する過剰な取り締まりや、黒人男性に対して異常に高い割合で行なわれる実力行使につながる体系的な人種差別を相殺してくれるのではないかと願うのは、単なるテクノユートピア的(科学技術の進歩がユートピアをもたらす可能性があることに期待する)なファンタジーだ。それは、ウーバーの配車やアマゾンのおすすめ機能のように、警察による暴力もデータのフローを増やせば解決できる情報問題なのではないか、という期待だった。だが、ここ数年のボディカメラの着用義務の広まりと、かつてないほどのソーシャル・メディアの普及を経て、情報は権力を伴わなければ意味をなさないことが明らかになった。もし米国民、特に有色人種たちが、フロイド、カスティール、エリック・ガーナーから学んだことが1つあるとすれば、個人が映像で武装しても、制度的な変化を起こすにはほとんど無力だということだろう。
それこそが、ミネアポリスやワシントンDC、ニューヨーク、その他多くの街で人々が抗議デモに参加している理由だ。警察による残虐行為を撮影した映像が持つ力が1つある。人々に衝撃を与え、憤慨させ、制度的な変更を要求する人々を動員する力だ。それだけでも、撮影を続けるべき理由になる。
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- イーサン・ザッカーマン [Ethan Zuckerman]米国版 寄稿者
- マサチューセッツ大学アマースト校 公共政策/コミュニケーション/情報 准教授(2020年秋〜)。元MITメディアラボ シビック・メディア・センター所長。