2015年4月、オマール・ラジャーニと妻のナターシャは生まれた子どもの誕生パーティのためにホールを借りて130人の客を招待し、子どもたちのために手品師も呼んだ。ナターシャの家系では子どもの1歳の誕生日パーティは大きなお祝いだ。ラジャーニ夫妻はトロント(カナダ)在住だが、子どもを生んで誕生祝いができるかどうか長い間わからなかったので、大喜びだ。
妊娠しようと4年間手を尽くしたナターシャ(35)とオマール(40)は初め、自然妊娠を試みた。次にホルモン剤を使ったが、子宮外妊娠(受精卵が子宮外、一般的には狭い卵管に着床するので除去しなければならない)になってしまい、再びホルモン剤治療を試み、体外受精もした。すべて駄目だった。
ナターシャの産婦人科医が次に勧めたのは、普通と違った方法だった。ボストンにあるオバサイエンス(OvaScience)が提供している体外受精の成功率を上げるための新しい治療法「オーグメント(Augment)」は「自己移植生殖細胞系列ミトコンドリアエネルギー伝達(Autologous Germline Mitochondrial Energy Transfer)」の合成語で、現在カナダと日本でしか認可されていない(米国では現在未申請)。手順としては、医師がナターシャの卵巣から細胞を採取し、そのミトコンドリア(細胞にエネルギーを送る小さな発電所のようなもの)を抽出する。次に、抽出されたミトコンドリアを夫の精子とともに卵子に注入し、胚を通常の体外受精の手順で子宮に移植する。オバサイエンスによれば、卵巣ミトコンドリアのエネルギーがあることで卵子が強化され、受精につながるという。
「ナターシャも私も気に入ったのは、この方法が一種の自己療法だったことです。この方法は安全で、ほとんど体の治療、体のヒーリングのようでした。この方法を試せて、本当にとても嬉しいです」(オマール)
ナターシャは、この方法を実施した直後の体外受精で男の子(もうすぐ2歳のザイン)を授かった。ラジャーニ夫妻の言葉によれば、オーグメント療法があったから妊娠できたかどうかは気にしない。夫妻は、妊娠が奇跡のようだと感じた。夫妻のよちよち歩きの子どもは、喜びにあふれた性格だ。ナターシャは「息子がいることで、どれだけ私たちは嬉しいことでしょう」と言う。冷凍されているもうふたつの胚が、いつかザインの兄弟になるかもしれない。
オーグメント療法があったからザインが受胎したのかは、不妊と高齢化をどう考えるかによって非常に多くの解釈がある。アメリカ人女性の10%以上が不妊に悩んでいるが、多くの女性が出産を考える年齢が上がっており、この数字は増えるだろう。女性の受精率は35歳を過ぎると低下が始まる。体外受精などの生殖補助医療を受ける場合、35歳以下女性で40%しか生児出産につながらないが、44歳以上の女性だと2%まで下がる。卵子の数が減り、質が落ちるのが大きな理由だ。
オバサイエンスの手法は、高齢のため受精率の下がった女性の多くの手助けとなるだけでなく、肉体の老化を遅らせた初期成功例のひとつとして、老化を穏やかに停止させる糸口になったといえる。
オバサイエンスの共同設立者で、ハーバード大学のデイビット・シンクレア教授(遺伝学)によれば、老化過程全体を克服することは、「できるかどうか」という問題ではなく「いつ実現できるか」の問題だ。
「哺乳類の寿命を延ばす方法はわかっています。人類に適用できることを証明する競争が始まっているのです」
女性の受精率は老化によって最初に衰える身体機能のひとつだというシンクレア教授によれば、不妊の克服は老化自体を克服することの端緒となる。シンクレア教授によれば、オバサイエンスのような革命的な技術を誰もが利用できるようにすることが目的だ。それも不妊症だけでなく、糖尿病からアルツハイマー病までの2000種に及ぶ老化関連病全体を対象にしなければならない。
シンクレア教授の熱心さに反し、体外受精は結果が予測しにくく、しかもラジャーニ夫妻は(1回目は運悪く失敗したように)2回目の体外受精は運よくうまくいった可能性があり、科学者の中にはオバサイエンスの技術は何も改善していない可能性がある(あるいはその可能性が高い)という人たちがいる。
受精と胚の初期成長の専門家たちとの十数回に及ぶインタビューから明らかになったのは、オバサイエンスの技術を利用したナターシャ・ラジーニの卵子やその他300人の女性の卵子にした処置には科学的な正当性がほとんどないことである。なお、体外受精のクリニックがオバサイエンスの技術に対して払う費用は6000~7000ドル(患者が払う金額はクリニックよって異なる)だ。オバサイエンスは、ミトコンドリアを卵巣内層にはない未成熟卵細胞だと考えているものから採取する。これらのいわゆる卵前駆細胞は、熟成成熟卵よりも新鮮なミトコンドリアを有するという考えがある。しかし、オバサイエンスの主張どおり、卵に変わる力のある細胞だという説得力のある証拠はほとんどない。このような卵前駆細胞が存在し、そのミトコンドリアが女性の卵よりも若々しくても、そのようなエネルギー増強が妊孕性を向上させることが証明されているのだろうか。
「オバサイエンスの技術のメリットを証明するデータはほとんど存在せず、しかも生物学的に見て根拠が支離滅裂なものがよくある」というのは胚性幹細胞の専門家であるワイツマン科学研究所(イスラエル)のジェイコブ・ハンナ主任研究員だ。ハンナ主任研究員はMIT Technology Reviewの依頼によってオバサイエンスの情報を検討し「オバサイエンスが問題の技術に関して信頼できるデータと実験内容を公表することを望みます。オバサイエンスの資料は、まるで呪術か錬金術のようです」と述べた。
さて、オバサイエンスは老化の最も根本的なプロセスのひとつを克服したリーダーなのだろうか、それとも科学的根拠の薄い技術を使って偽りの希望を売っているのだろうか?
若返りを目指した分野融合
オバサイエンスは医学界において最も大胆不敵な、そしてしばしば論争の的となる、老化防止と不妊治療というふたつの分野の融合のために創業した。オバサイエンスの科学的原点はノースイースタン大学(ボストン)のジョナサン・ティリー教授(生殖生物学)の研究にあると明言する。ティリー教授は「女性は一生分の原始卵胞を持って生まれてきて、それが将来的に成熟して卵子になる。思春期になるとこのストックから卵子が1カ月に1個成熟するが、卵子が新たに作られることはなく、35歳ごろから受精率が衰えるのはこのストックが減ってくるからで、ストックを使い切ってしまうと更年期になる」という何十年にも及ぶ定説に、2004年の論文から今までずっと異議を唱え続けている。ティリー教授の研究が示すのは(まずネズミ、次に人間において)、新たな原始卵胞ができた形跡が卵巣の上皮にあることだ。ティリー教授の結論が正しければ、不妊治療とは単にこの卵子の前駆細胞を探し、成熟させればよい(10 のブレイクスルーテクノロジー 2012: 卵子幹細胞参照)。
シンクレア教授は、当時ハーバード大学にいたティリー教授と共同研究することは自然なことだったという。ティリー教授が論文で言及したテーマである「肉体はどう老化するか。老化を遅らせるには何ができるか」がシンクレア教授の心を捉えたのだ。「私は、人間が老いる主な理由は何か、また老いるにしたがって細胞が機能しなくなるのはなぜかを解明しようとしてきました」とシンクレア教授はいう。
シンクレア教授はティリー教授を2人のバイオテクノロジー企業家、リッチ・オルドリッチとミシェル・ディップに紹介した。シンクレア教授は以前ふたりとアンチエイジング企業サートリス・ファーマスーティカル(シンクレア教授のサーチュインに関する研究に基づいた会社)を共同 …