「AIは芸術家になれない」
哲学者がそう主張する理由
人工知能(AI)の進歩が続けば、いずれは人間を超える創造性を発揮するようになるのだろうか。ハーバード大学の哲学者シーン・ドーランス・ケリー教授は「人間の創造性がAIの進歩に屈することはない」という。 by Sean Dorrance Kelly2019.05.09
1913年3月31日、ウィーン楽友協会大ホールでアルバン・ベルク作曲のオーケストラ曲の演奏中に暴動が起こり、コンサートは混乱に陥った。ホールの装飾が壊され、ほとんど無名のオペレッタ作曲家であるオスカー・シュトラウスを殴ったとして、コンサートの主催者が逮捕された。シュトラウスはその後の裁判で、観客の不満について皮肉っぽく述べている。シュトラウスによれば、殴られた音がその夜に聞けた最も美しい音だったという。だが、歴史は異なる判断をした。そのコンサートの指揮者であったアルノルト・シェーンベルクは、おそらく20世紀で最も創造的で影響力のある作曲家として名を残している。
従来の調性を無視して、音階の12音を対等に扱って配列するシェーンベルクの無調音楽に対する好みは分かれるかもしれない。だが、シェーンベルクは、音楽に対する人類の認識を変えた。シェーンベルクが本当に創造的で革新的な芸術家だとみなされているのはそのためだ。シェーンベルクの手法はいまや、映画音楽やブロードウェイ・ミュージカルから、マイルス・デイヴィスやオーネット・コールマンのジャズソロに至るまで、あらゆる音楽に分け隔てなく取り入れられている。
創造性は、人類史上最も神秘的で、感嘆すべき業績の1つだ。だが、創造性とはいったい何なのだろうか?
創造性とは、単に目新しいというだけのことではない。よちよち歩きの幼児をピアノの前に座らせれば、今まで聞いたことのないような一連の音を出すかもしれないが、意味のある創造をしているわけではない。また、創造性は時代の制約も受ける。ある時代や場所において創造的な発想とされているものが、別の時代や場所では、無茶苦茶で、ばかげていて、狂気じみているとして、軽視されるかもしれない。コミュニティが良い考えだと認めなければ、創造的だとはみなされないのだ。
シェーンベルクなどの現代芸術家に対する場合と同様、芸術性の受け入れに普遍性がある必要はない。実際のところ、長い間認められないかもしれない。創造性は時に、何世代にも渡って誤った評価を受け、却下されてしまうことがある。だが、イノベーションが最終的に何らかの実践コミュニティによって受け入れられない限り、それが創造的なものかどうかを語ることは、ほとんど意味がない。
人工知能(AI)の進歩により、創造性を含めたあらゆる分野で、人間はそのうち機械に置き換えられると多くの人が推測している。フューチャリストのレイ・カーツワイルは、平均的な教育を受けた人間に匹敵するAIが、2029年までに生み出されると予測している。オックスフォード大学の哲学者ニック・ボストロム教授は、もう少し慎重だ。時期は特定しないが、哲学者や数学者は、基本的な問題への取り組みに関する仕事を「超人的に高い知能を持つ」後継者たちに譲るべきだと提案している。ボストロム教授は、「超人的に高い知能を持つ」後継者とは、興味を持たれるあらゆる分野における人間の認識能力を、実質上、はるかに超越する知能を持つ存在だと定義している。
ひとたび人間レベルの知能を持つ機械が生み出されれば、爆発的進歩があると2人は信じている。そのことをカーツワイルは「シンギュラリティ(特異点)」、ボストロム教授は「知能爆発」と呼んでいる。そうした状況下では、機械がすべての分野のほとんどで、極めて迅速に人間に取って代わるだろう。こういった事態は起こるはずだと2人はいう。ボストロム教授が呼ぶところの「スピード超知性」が、すべての適切な計算を極めて迅速に実行することを除けば、超知性にできることは、普通の人間にできることと同じだからだ。
では、人間による最高レベルの成果、つまり創造的イノベーションについてはどうだろうか。機械は、最も創造的な芸術家や思想家も凌駕してしまうのだろうか?
そんなことはない。
人間の創造的な業績は、社会的に埋め込まれているがゆえに、AIの進歩に屈することはないだろう。さもないと、人間とは何か、あるいは、人間の創造性が何を意味するのかを取り違えてしまう。
とはいえ、この主張は絶対的ではない。文化やテクノロジーに対する期待を司る基準に依存する。その昔、人間は生命のないトーテム像にまで大きな力や守り神が宿っていると考えていた。人工的な知的機械を、人間よりはるかに優れた存在として扱い、コンピューターが創造性を持っていると自然に思うようになる可能性は十分にある。もしそうなったとしても、機械が人間より優れているからではない。人間が自分たち自身を軽視した結果なのだ。
私はここで、現在の深層学習パラダイムや、計算機分野の後継技術に見られるような機械の進歩について主に述べている。過去において、別のパラダイムがAI研究において多くを占めていた。こういったパラダイムでは、目標を達成できなかったことはすでに明らかだ。将来的には、別のパラダイムが登場するかもしれない。しかし、(現時点で)意味のある特徴を説明できない抽象的な将来のAIがすばらしい成果を上げる可能性についてあれこれ思索することは神話であり、合理的な議論にならない。
創造的な業績は、異なる分野において異なる方法で機能している。ここでは、異なる種類の創造性の完全な分類法を示すことはできないので、3つの異なる例を挙げて議論したい。音楽とゲーム、そして数学だ。
音楽について
シェーンベルクのように、世間が考える音楽に変化を引き起こす超人的な創造力を持った機械は実現可能なのだろうか?
私は不可能と考えている。その理由を見ていこう。
自動作曲システムは、かなり前から存在していた。1965年、レイ・カーツワイルが17歳の時のことだ。カーツワイルは、現在でいう深層学習アルゴリズムの特徴を持つパターン認識システムの前身を用いて、聞き覚えのある曲を作曲するコンピューター・プログラムを作った。この手法を変形したものが今日でも使用されている。たとえば、深層学習アルゴリズムにバッハの賛美歌をたくさん入力して、バッハの特徴によく似た音楽を作曲させると、専門家ですらその曲が、バッハが作曲したものだと勘違いしてしまう。これは物まねだが、実際芸術家たちが下積み時代にすることでもある。本来の自分自身の表現をする代わりに、まねをして他の人のスタイルとして完成させるのだ。だがこれはバッハに関連する音楽の創造性とは別物であり、シェーンベルクの急進的なイノベーションとは似ても似つかない。
では、どう考えるか? シェーンベルクのように、まったく新しい音楽の作り方を発明するAIは存在するだろうか?もちろん、そうしたAIを想像し、作ることもできる。独自の作曲ルールを変えるアルゴリズムを作れば、現代の私たちが聞いて心地よいと思う音楽とは異なる音楽を作曲するAIを作ることは簡単だろう。以前にシェーンベルクがそうした曲を作ったように。
だが、ここで事は複雑になってしまう。
シェーンベルクが、創造的なイノベーターとして認められているのは、新しい作曲方法を作り出したからだけではない。世界がどうあるべきかを示すビジョンが曲の中に見えるからだ。シェーンベルクのビジョンには、簡潔で飾り気がなく効率的な現代的ミニマリズムがあった。シェーンベルクのイノベーションは、音楽を作曲する新しいアルゴリズムを発見しただけではなかった。今、世の中から必要とされている音楽とは何かについて考える方法を見つけたことだったのだ。
ハードルを上げすぎだと言う人もいるかもしれない。そういう人はこう尋ねるだろう。私が主張しているのは、社会に創造的だと認められるために、神秘的で、計り知れない感覚がAIには必要だということなのか? と。そんなことを主張しているのではない。理由は2つある。
まず、作曲のための新しい数学的手法を提案することで、シェーンベルクは音楽が何であるかについて、私たちの理解を変えたことを思い出してほしい。一部の敏感な人々が必要とするのは、こういった伝統に反する種類の創造性だけだ。20世紀初頭のウィーンで急進的な近代化が起こる中、反伝統主義的なシェーンベルクの手法を知らなかった観客は、美的価値のある音楽だと思わなかったかもしれない。ここで重要なのは、急進的な創造性とは、平凡な創造性が「加速された …
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