個人向けの遺伝子療法はいつ実現し、誰が認可するのか?
遺伝子編集ツールで、筋ジストロフィーのような重病の治療方法を探求する科学者がいる。 by Antonio Regalado2016.10.18
24歳のベンジャミン・デュプリーは、デュシェンヌ型筋ジストロフィーの患者としては長生きの方だ。病気が診断されたのは15年前で、その頃はすでに手すりを使わずに階段を上がるのが困難だった。医師は症状が末期段階とはいったが、病気との付き合い方についてはほとんど教えてくれなかった。女の子は車椅子を無視するし、電話はすっかりかかってこなくなった。母親と一緒に誕生日を迎え、その年にできなかったことを思い返すのだ。高校はなんとか切り抜けたが、大学ではうつの症状に苛まれたという。
「これからどうすればいいのかわからなくなりました」
デュシェンヌ型の原因は、衝撃吸収剤材のような機能を持つタンパク質であるジストロフィンを体内で作れないことにある。ジストロフィンがないと、二頭筋やふくらはぎの筋肉、横隔膜が脂肪のような物質に徐々に変質してしまうのだ。ゆくゆくは人工呼吸器につながれ、心臓が止まってしまう。ジストロフィンをつくる遺伝子はヒトゲノムで最大であるだけでなく、自然界でも最大の存在だ。「エクソン」と呼ばれる79の要素から成り、それぞれがタンパク質のひとつの構成要素に指示を出す。 デュプリーの問題は「偽の」エクソンにある。素晴らしいレシピの途中で、誰かが「調理をやめろ」と間違って指示を出すようなものだ。この大きさの遺伝子が誤った方向に進む可能性は何千通りもあるが、デュプリーの変異(塩基配列のひとつが「T」の代わりに「G」になっている)は、科学界で知られている限りでは唯一のケースだ。
かつて生化学を専攻し、遺伝子カウンセラーを目指しているデュプリーは、その小さな遺伝子エラーがなければどんな人生だったかについて想像を巡らせることがある。1年前の12月、「CRISPR(クリスパー)」と呼ばれるテクノロジーによって遺伝子の修正が実現できるかもしれないと知った。その数カ月前にテキサス大学のエリック・オルソン教授(生物学)から血液提供を求められ、デュプリーは同意した。それから間もなくタイライト製の車椅子でラボを訪問し、テキサス大学南西医療センターの所長を務めるオルソン教授から結果と、デュシェンヌ型を治癒できる可能性が最も高いと科学者が考える方法を見せられた。
正確に選んだ場所でDNAを切り取れるCRISPRの技法で、病院のチームがシャーレの細胞を改良し、余分なエクソンを切開した。このようにDNAを破壊すると、細胞が急いで修復しようとする。しかし自然の修復プロセスには小さなエラーが含まれることがあり、そうなると病気の原因になる遺伝的指令が解読不能になる。編集プロセスに必要なのは1つのステップだけで、それには3日間かかった。顕微鏡写真では、デュプリーの完全なジストロフィン細胞はぼやけた緑色の粒に見える。
「現実的になろうとしています……でも『わあ、もうそこまで来てるぞ』と思います」
CRISPRによって、正確に、簡単に任意のゲノムを「編集」できる可能性が出てきたことで、私たちの自然に対する考え方が変わりつつある。CRISPRの手法はしばしば、DNAの「検索と置換」の機能に例えられる。実験室の科学者にとっては、火の発見に例えられるかもしれない。この新テクノロジーの新たな応用法について、毎日平均して8本の科学論文が発表されている。その中には好ましい特徴を備えたデザイナーベイビーや、絶滅するようにDNAをプログラムされた蚊のような、爆発的に普及することだけを念頭に置いたアイデアもある。
あらゆる応用可能性の中でも、デュプリーのような患者の痛みや苦しみを終わらせるのは、CRISPRの最も魅力ある展望だ(実現は遠いかもしれないが)。初期段階の実験では、研究に従事する科学者により、がんを攻撃し、HIVや肝炎感染に打ち勝つ新しい方法、さらには盲目や難聴を治す方法までもが遺伝子編集で実現することが示されている。企業も手をこまねいているわけではない。ボストンの3つのスタートアップがすでに合計10億ドルを集め、バイエルやノバルティスといった世界最大級の製薬会社と手を組んでいる。
「このテクノロジーの行く末は誰にも想定できません。私は、想像しているよりも遥かに遠くに連れて行ってくれる前提で研究を進めています」(オルソン教授)
科学的には、約5000の遺伝性疾患に関与する遺伝子エラーが知られており、配列決定に関わるラボでは毎年300件が新たに発見されている。中には10億人に1人の症状もあるが、デュシェンヌ型筋ジストロフィーはその対極にある、最もよく見られる遺伝性疾患であり、4000人に1人の男子に症状が表れる。女子はめったにかかることがなく、割合はもっと低い。
人間のDNAを一度で永久的に変えられる遺伝子編集は、この種の病気を根絶する手段になりうる。従来の遺伝子治療の一段階先にあるものだ。通常はウィルスを使って置換遺伝子全体をヒトの細胞に導入する手法は30年前からあるが、この手法が実用的でない病気も存在する。たとえば、ジストロフィンの遺伝子は大きすぎてウィルスの内部に収まらないが、CRISPRのDNA切り取りタンパク質なら可能だ(害を及ぼす欠陥遺伝子を沈黙させる必要がある場合もあり、新たなものを添加しても役には立たない)。CRISPRが遺伝子列を削除し、交換する能力は新たな治療法を幅広く可能にする。CRISPRを「遺伝子治療2.0」と呼ぶ医師もいる。
確かに、「遺伝子治療1.0」も完全に確立しているわけではない。研究が始まって30年たつが、科学者はいまだにウィルスで遺伝子の指令を生きている人間の細胞に移す方法を調べている。遺伝性疾患について認可されている遺伝子置換療法は2種類しかなく、どちらもヨーロッパの話だ。しかしCRISPRがデュシェンヌ型を止める可能性が最も高いと確信している、とオルソン教授は語る。今年はじめ、筋ジストロフィーのマウスに対して、CRISPRの原材料が詰まったウィルスを血管に送り込み突然変異を治せることを示した。
「マウスは人間の少年とは違いますが、やらなくてはならない作業については正確に把握できたと思います。もしうまく行けば、対症療法ではなく、根治療法になるでしょう」
オルソン教授の予測では、CRISPR療法をデュシェンヌ型筋ジストロフィーの患者で試す最初の試験は2年以内に開始される。数人の少年に対して、小規模で予備的な臨床試験を実施するはずだ。オハイオ州の遺伝子治療研究の拠点であるネイションワイド小児病院のジェリー・メンデル医師の協力を得て、ヒト試験への助走として、今後12カ月間でサルに治療を施すことが予定されている。また、CRISPR遺伝子治療に予想外の副作用がないかどうかも調べられる。偶発的な編集が特に懸念される。
実験室での進展を把握しているデュプリーは、自分自身には大きな期待は抱いていないいう。研究自体に何年もかかることがわかっているし、特異な変異であるため、自分だけのために調整された治療が必要となる。「他の治療法にはない、自分との科学的な関わりを考えると気持ちが高まります」とデュプリーはいう。しかし母親のデビー・デュプリーは、患者の親が集まるチャットボードやFacebookのページはすでに質問が溢れかえっていると明かす。
「大量の投稿があります。みんな、いつ実用化されるのか知りたがっているのです」
熱心に質問しているのはデュシェンヌ型筋ジストロフィー患者とその家族だけではない。致命的ながんやHIV、鎌状赤血球貧血などの遺伝的疾患に直面している多くの患者が、オルソン教授のラボでCRISPRによって改変された細胞の命運を知ることになるだろう。医療の新時代が幕を開けるのか、それとも単に有望な研究結果なだけで、実験室の中の話で終わってしまうのか? さらに、研究者には次の課題が待っている。全身の細胞についてDNAを安全かつ効果的に編集し、CRISPRを価値ある実験室ツールから実践的な治療法へと変えなければならない。
病気を「削除」
CRISPRは、10億年単位で、ウィルスに対する免疫機能の形で細菌の中で進化した現象だ。細菌は …
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