原研哉さんといえば、日本を代表するグラフィック・デザイナーだ。日本デザインセンターの代表取締役を務め、武蔵野美術大学で教鞭を執る原さんは、無印良品や蔦屋書店のアートディレクターとして知られ、長野五輪や愛・地球博といった国際的なイベントでもデザインを担当した「重鎮」。そんな原さんに、MITテクノロジーレビューが主催する自動運転をテーマにしたカンファレンス「Future of Society Conference 2018——自動運転が『再設計』する都市生活の未来」(11月30日開催)に登壇いただくことになった。
「移動への欲望」からクルマと都市を考え直す
MITテクノロジーレビューのイベントに、デザイナーである原さんをお呼びするのには理由がある。著書『日本のデザイン——美意識がつくる未来』(2011年、岩波新書刊)に、今回のカンファレンスの開催趣旨との強いシンクロニシティを一方的に感じたからだ。
原さんは同書第1章「移動」の「移動への欲望と未来」節において、移動の未来について次のように述べている。
「技術の進歩や素材の革新だけからこれを想像するのはナンセンスだ。(中略)こうありたい、こんな風に移動したいという人間の欲望が、大きなドライブをかけている」
いまから7年前に刊行された本書には、もちろん自動運転への直接的な言及はない。だが、原さんは現在のクルマはあくまでも「移動」という欲望を実現するための道具の1つの形態でしかない、という。これは自動運転を考えるときに、あらためて確認すべき考えだと思う。
そもそも、自動運転には誤解があると思う。現在、発表されている自動運転は人間がしていた「運転」という作業を自動化すること、つまり、ドライバーレスであることに主眼が置かれている。レベル0~5というレベル分けは現在の自動車の延長線上にある考え方で、クルマという道具の形態が維持されていることが大前提だ。だが、それだけでは夢がない。
完全自動運転(自律運転)になれば、いまのクルマの形態は必要なくなる。運転席が不要になるだけでなく、窓の数や車体の大きさといった「人間の運転しやすさ」を前提とした設計は見直すこともできる。そうなれば、それはもう「自動車」と呼ぶものではなくなるかもしれない。 都市の光景も変わるはずだ。自動運転車のライドシェアが当たり前になれば駐車場はいらなくなり、首都高のような道路はいずれ都市遺跡になるかもしれない。「移動したい」という人間の欲望を起点に考えたときに、移動手段や都市の有り様はもう一度デザインされる必要があると思うのだ。
先日の打ち合わせで原さんは、「僕は(プロダクトではなく)グラフィックデザイナーだから」と言いながら、移動へのさまざまなアイデアを述べてくれた。その内容はここでは紹介しないが、「現在のクルマの延長ではなく、未来の人間の欲望に影響力を持つリアルな移動体の可能性をいつかヴィジュアライズしてみたい」(『日本のデザイン』40ページ)という原さんがカンファレンスでどんな未来を語るのか。いまから楽しみだ。