世界最大の機械装置である「大型ハドロン衝突型加速器(Large Hadron Collider:LHC)」は、物理学の最重要問題の手がかりを得るために建造された。LHCに携わる科学者たちは、この粒子加速器の大量のデータを処理し、理解しなければならない。科学者たちは、「光速に近い速度で起こる高エネルギーの衝突によって、特定の粒子が生み出されるかどうか?」という問題の答えを知りたがっている。
10億個の粒子衝突から1秒間に1ペタバイト以上のデータを生成するLHCのデータを分析して理解するには、世界中に存在する約100万個のプロセッサー・コアが必要となる。どうすればいいのだろうか。
それこそが、IBMの研究員ジェニファー・グリックが取り組んでいる難題の1つだ。グリックの仕事は、量子コンピューターの利用によって解決できる大きな問題を見つけ、既存の量子アルゴリズムで解くか、もしくは問題解決のために新たに量子コンピューター用のアルゴリズムを作成することだ。
量子コンピューティングは、古典的コンピューターでは手に負えなかったり、時間がかかりすぎる特定の問題(つまり、グリックが追求しているような問題)に対して、古典的コンピューターをしのぐ圧倒的な処理能力の向上をもたらす。量子コンピューターの強みは、指数関数的に大きな計算空間を提供するキュービット(量子ビット)の重ね合わせと「もつれ」によるものだ。例えば、完全なキュービットが50個あれば、1000兆(10の15乗)以上の状態を一度に扱える。
ただ、量子コンピューティング技術はまだごく初期の段階にある。IBMでの2年間、グリックは量子テクノロジーの社会実装を進めるため、先頭に立ってパートナーシップの構築を進めてきた。グリックは、量子コンピューターが古典的コンピューターよりも問題をすばやく解く方法を開発し、実証することに多くの時間を費やしている。
グリックは量子テクノロジーの社会実装を進めるため、先頭に立って活動してきた。
グリックは、「LHCでは、特定の粒子が生成されたかどうかを量子アルゴリズムで予測することに着目しています」と話す。「あらかじめ考えていた粒子は生成されたのかどうか? ということです」。
2019年、グリックと同僚らは大手銀行のバークレイズと共同で、より身近で大きな別の課題に取り組んだ。証券取引の決済で毎年処理される、千兆規模のドルを管理するという課題だ。例えば、金融機関が株や債券、デリバティブを購入する際に発生する。クリアリングハウス(精算機関)は、技術的・法的な制約の中で可能な限り多くの取引を決済するために、複雑な最適化アルゴリズムを実行しなくてはならない。
グリックのチームの研究結果からは、量子技術によってこれらのプロセスの効率を向上させ、取引から決済までの時間を短縮できる可能性があることが示された。グリックは、「産業やビジネスの問題が提示されたとき、初めのうちは複雑な点がたくさんあります。とても複雑で厄介な問題です」と述べる。「その解決策の1つは、現在使われている古典的なコンピューティング手法におけるボトルネックとなっている部分を特定することです。そのボトルネックを、量子的なアプローチで取り除けるかどうか? と問うのです」。