オマー・アブディエ(マサチューセッツ工科大学)

Omar Abudayyeh オマー・アブディエ(マサチューセッツ工科大学)

CRISPRを使った家庭用新型コロナウイルス検査キットの開発に挑戦している。 by MIT Technology Review Editors2021.01.26

生物医学的研究と遺伝性疾患の治療を変える可能性があるクリスパー(CRISPR)は、世紀の発見と言われてきた。その遺伝子編集ツールを、診断検査に利用するために役立てたのがオマー・アブディエ特別研究員だ。この診断検査は、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のパンデミックを抑制するのに役立つかもしれない。

特定のタンパク質をコードする遺伝子を正確に発見するしくみを利用して、アブディエ特別研究員は、2016年にマサチューセッツ工科大学(MIT)のジョナサン・グーテンバーグ特別研究員ら研究仲間とともに、クリスパーをがんの突然変異、バクテリア、ジカ熱のような蚊媒介ウイルスを発見するツールへと磨き上げた。その後間もなく、スタートアップ企業シャーロック・バイオサイエンシズ(Sherlock Biosciences)がスピンアウトし、4900万ドルの資金を調達し、新聞でクリスパーの「新たな能力」が報じられた。

そして、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が出現した。米国において、新型コロナウイルスを検出するための遺伝子検査は大幅に不足しており、主力テクノロジーであるPCRを使った検査は悪戦苦闘していた。アウトブレイクから3カ月後の2020年5月初旬までに、新型コロナウイルスの検査を受けた米国人は人口の約2%だった。一部の経済学者によると、米国が自信を持って経済活動を再開するためには、同じ人数を1日で検査する必要があるとされている。

そのため、アブディエ特別研究員は2020年1月以来、研究仲間と共にクリスパーを利用した新型コロナウイルスの家庭用検査キットの開発に取り組んできた。検査で利用する基本的な化学物質はとても単純なので、出勤前に、あるいは飛行機に搭乗する前の空港ゲートで、自分自身で検査ができる使いやすい検査キットを作れるという。

この開発が成功すれば、いつでもどこでもウイルス検査が可能になる。そして、遺伝子編集革命が初めて、一般人の自宅や生活に直接届くことになる。

検査のしくみ

クリスパー革命は、バクテリアが「バクテリオファージ(バクテリアに感染して増殖するウイルス)」を切り刻む方法を編み出していたという2000年代初頭の発見から始まった。この自然界の生物学的発明の頭文字をとった略語「CRISPR」は、「Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeat(クラスター化され、規則的に間隔があいた短い回文構造の繰り返し)」のことである。CRISPRは、特徴的なDNA配列を見つけ、はさみの働きをする酵素Cas9(キャスナイン)を使って、狙ったDNA配列部分を切断できる。後に、この遺伝子編集ツールは使いやすく、多くの種で機能することが判明した。バイオテック関連のスタートアップ企業は、ヒトの遺伝性疾患の治療をめぐって競争を開始した。中国では、遺伝子編集された双子のヒトさえ誕生した。

アブディエ特別研究員が「Cas9ブーム」と呼ぶ現象が起きている間、アブディエ特別研究員は、新たなクリスパー酵素を発見して特性を明らかにするという、あまり目立たない研究の道に魅了されていった。

すぐに新しい酵素を次々と発見し始め、アブディエ特別研究員は研究仲間と共に新しく発見した切断酵素の働きを実証していた。Cas12aとしても知られるCpf1、その後に発見されたCas12bなどがそうだ。しかし、文字通りヒトの鼻の下で発見された、レプトトリキア・シャーイイ(Leptotrichia shahii)と呼ばれるヒトの口腔内細菌の一部から発見されたCas13と呼ばれる酵素は特別だった。Cas13は、DNAを切断する代わりに、細胞内の遺伝子メッセンジャー分子であるかつ、新型コロナウイルスを含む数多くのウイルスの主要な遺伝物質でもあるRNAを標的にできるのだ。

「現在の我々の目標は、秋に向けて準備をすることだと思います。もちろん、第2波に備えてです」

これは、まったく新しい編集方法だった。変わらないのは、アブディエ特別研究員が、遺伝子編集の研究仲間であるジョナサン・グーテンバーグ特別研究員と緊密かつ継続的に協力していることだった。この2人はMITの学部生時代に出会い、その後、ブロード研究所(Broad Institute)にあるクリスパーの開拓者、フェン・チャン教授の超多忙な研究室で共に研究した(MITテクノロジーレビューは2013年のイノベーター35人にチャン教授を選出している)。2人は28本の論文を共同執筆し、2017年にはMITマクガヴァン研究所(MIT McGovern Institute)に、2人の共同研究室を設立するために雇われた。その研究室は、2人の名前を取って「アブグート・ラボ(AbuGoot Lab.)」と名づけられた。

アブディエ特別研究員は「私とグーテンバーグ特別研究員は、ひたすら進み続ける科学的なブロマンスだ、と冗談を言っています」と話す。アブディエ特別研究員は、2人のうちグーテンバーグ特別研究員のほうが数学的で、アブディエ特別研究員自身は実務的なほうだと考えているという。「私たちの脳はまだ完全には融合していませんが、かなり似ています」。

新しいRNA編集酵素であるCas13を理解するためには、2人の頭脳が必要だった。そして、この酵素の奇妙な「副次的効果」が判明した。それは、特定のRNA鎖を切断するだけでなく、切断が始まると、その経路にあるRNA鎖を無差別に切断し、分解するというものだった。「常軌を逸した仕組みで、最初は理解に苦しみました」とアブディエ特別研究員は言う。「細胞自殺メカニズムの一部だと我々は考えています」。すなわち、ウイルスに攻撃されたときのために、バクテリアに備わる自己破壊装置だ。「Cas13が活動を始めると、細胞内のすべてが活動を停止します」。

ただし、無差別な切断をするということは、Cas13が遺伝子編集には適さないことを意味する。「そこは少し残念でしたが、我々は工学系の出身ですので、Cas13が何に役立つかを考えました」とアブディエ特別研究員は話す。例えば、がん細胞のRNAを粉々にして、活動を停止させられないだろうか?

Cas13による副次的な損傷を利用すればクリスパーを検査室での診断に使えるかもしれないというアイデアを最初に発案したのは、ライバルであるカリフォルニア大学バークレー校ジェニファー・ダウドナ教授が率いる研究室の科学者だった。バークレー校の研究チームは、無差別な切断が検出のしくみとして役立つ可能性があることを提案した。要するに、酵素Cas13が試験管内で、例えばウイルスに属するRNAの一部などを発見した場合に、副次的な切断によって、壊れたときに目に見える蛍光シグナルを発する特別なRNAを切断するということだ。

すばらしいアイデアだが、Cas13自体には診断に使えるほどの感度がなかった。そこで、アブディエ特別研究員とグーテンバーグ特別研究員は、MITのジム・コリンズ教授の助けを借りた。コリンズ教授は、診断対象物質を検査する前にRNAを複製して増殖させる手順を追加する方法を2人に教えた。2017年には、アブディエ特別研究員の研究グループは、シャーロック(Sherlock)と呼ばれる完全なクリスパー診断システムを発表した。シャーロックは、がんを引き起こしたり、バクテリアやジカ・ウイルスの存在を示したりする固有の突然変異を見つけることができる。さらに、精度が非常に高かった。1億人の世界人口の中から1人の顔を判別できる、と想像してみてほしい。それに相当することを、シャーロックはRNAの選別において出来るのだ。

シャーロックはすぐに、独自のクリスパー診断企業マンモス・バイオサイエンシズ(Mammoth Biosciences)を設立したバークレー校の研究チームと競争することになった。その結果、競合する診断特許をめぐる争いが起きた。それは、最初のクリスパー発明を巡ってこの2校間で起きた、壮絶な特許紛争を想起させるようなものだった。アブディエ特別研究員は肩をすくめて「複数のグループが取り組んでいると、よりエキサイティングになります。クリスパー診断にとっては、テクノロジーを売り込もうとしているのが1社だけはないほうがいいのです」と語った。

アブディエ特別研究員の言うとおりである。難しいのは市場参入であり、これこそが、診断検査キットが大企業、大型設備、および集中型の研究所のビジネスとなっている理由である。45ドルで販売される診断検査キットを開発するために1億ドルかかることもある。ベンチャー・キャピタリストのブルース・ブース博士は、かつてこのビジネスを「気弱な人向けではない」と表現した。アブディエ特別研究員が共同設立した企業シャーロック・バイオサイエンシズは、2019年の後半時点では、このクリスパーを利用した検査の市場投入に向けて徐々に進めている状態だった。

しかし、中国から新型コロナウイルスのパンデミックが爆発的に広がったことで、状況が一変した。米国での検査キット不足が明らかになると、米国食品医薬品局(FDA)は数十種類の検査キット製造企業に緊急承認を与え始め、すぐに市場投入が可能になった。シャーロック・バイオサイエンシズは2020年5月に米国の承認を獲得し、まだ研究室でテストする必要のある、クリスパーを利用した検査キットが市場で使えるようになった。しかし、発表時にはまだその検査キットを使った人は誰もいなかった。

家庭用検査キット

それでも、その検査キットは、訓練を受けていない人が使えるほど簡単なものではなかった。MITのキャンパスでは、アブディエ特別研究員、グーテンバーグ特別研究員、チャン教授が、このテクノロジーの簡素化に乗り出した。3人は、液体を混ぜるステップの一部を省略できれば、診断検査キットは職場や薬局、さらには自宅でも使えると考えた。PCRのように、加熱と冷却を繰り返す必要はなかった。そして、結果表示は妊娠検査のように、紙片に色つきの棒が示されるだけで読み取りは簡単だった。「我々が目指しているのは、実際に自宅でできる検査です」とアブディエ特別研究員は言う。「そのために手順を減らし、シンプルで安価にするにはどう進めていけばいいのでしょうか?」。

現在、患者のベット近くに置くいわゆるポイント・オブ・ケア診断装置は存在するが、装置には数千ドルの費用がかかる。アボット(Abbott)が販売している検査装置アイディ・ナウ(ID NOW)は、新型コロナウイルスに感染しているかどうかの結果が15分で分かり、ホワイトハウスでトランプ前大統領を訪問する人を選別するために使用されていた。しかし、この検査を処理する装置の購入には数千ドルかかる。アブディエ特別研究員は、クリスパー家庭用診断検査キットは単純な構造にして、費用は1回6ドルになるかもしれないと言う。

アブディエ特別研究員の研究チームは、2020年5月に簡易化した診断検査キットを作り上げ、新しい化学物質を共有するためのWebサイトを立ち上げた。これにより、患者の鼻腔スワブから新型コロナウイルスを発見できることが分かった。アブディエ特別研究員の研究チームはデザイン企業と協力して、検査用試薬の保存と混合のためのプラスチック・カートリッジの試作品を開発した。ところで、アブディエ特別研究員は自分自身の検査をしたのだろうか? まだだ。「検査キットのチューブに唾を入れたくなるんです」とアブディエ特別研究員は言う。「それで検査できれば、驚いちゃいますよね」。

かなり近い将来、世界中の人々が「私は感染しているのか、していないのか?」と定期的にチェックできるようになるかもしれない。少なくとも、それが望ましい状態だ。

現在の診断検査キットは「まだ完成していません」とアブディエ特別研究員は話す。「完成品は唾を入れるだけで済むシンプルなデバイスです。しかし、現在開発中のデバイスで利用している化学特質は、家庭で使えるものです。現在の我々の目標は、秋に向けて準備をすることだと思います。もちろん、第2波に備えてです」。

(写真:David Vintiner)