iPS細胞による不妊治療は
人類をどう変えるのか
科学者はiPS細胞を用いることで、精子と卵子を実験室で作成しようとしている。研究が成功した場合、多くの不妊症の問題を解決できるだろう。しかし一方で、実験室で一から生命を創造できてしまう可能性を秘めた、根源的で、そして大問題となりうる進歩でもある。 by Antonio Regalado2017.08.29
彼の名前を「B.D.」としよう。彼の妻が書いている不妊症ブログ「空砲(Shooting blanks)」の中で、夫のことをそう呼んでいるからだ。数年前、当時36歳だったB.D.は、自分が無精子症であることを知った。B.D.の肉体は精子をまったく作れなかったのだ。
最近、B.D.へ電話インタビューを行った際、背後から妻の声が聞こえた。35歳の彼女いわく、子供なき人生への恐ろしいカウントダウンを味わっているという。ブログには「子供のいない人生が私の運命のはずがありません。そんなことは有り得ません」と書かれている。
現在のところ、B.D.のケースの不妊症は、薬やビタミンを何年飲んでも、大手術をしても、処置のしようがないことが分かっている。それでも、成功率は低いが、もしかしたら父親になれるかもしれない方法はある。2012年にB.D.はスタンフォード大学を訪れ、肩の部分から皮膚の小片を切り取った。「リプログラミング(初期化)」と呼ばれる技術で、皮膚をさまざまな細胞になることのできる幹細胞に変化させるのだ。次に、この幹細胞をネズミの睾丸に移植する。すると幹細胞は、周囲の細胞から刺激を受けて、精子をつくりだす細胞(始原生殖細胞)に分化する可能性があるというのだ。実験から2年後、科学者はヒトの始原生殖細胞の痕跡がつくられたと発表した。この刺激的な発見は全国的なニュースとなった。
「私はニュースを公共ラジオで聞きました。『こん畜生、俺のことを話しているんだな』と思いましたよ」とB.D.は回想する。
今回の実験は、大人の人間から得た普通の細胞を、完全に機能する配偶子(つまり精子または卵子)に転換する試みだった。今のところ誰も転換に成功した者はいないが、科学者によると、それが可能なことを証明する段階に入ってきたという。もし実験室で精子や卵子を作り出すテクノロジーを開発できれば、多くの不妊症の問題を解決できる。しかしこれは、生命の創造を実験室での手続きに変えてしまう根源的な(そして、大問題となりうる)進歩でもある。
これは、細胞が自分で自分の運命をどう決めるかについての研究が爆発的に行われた結果の一部である。ニューロンになるべきか? 拍動する心臓細胞になるべきか? 卵子が受精し、新しい生命ができあがった瞬間から立て続けに起こる生化学的な信号が、胚の分裂や成長、そして細胞の分化を引き起こしていく。発生過程を研究する生物学者が抱く野望は、その各段階を理解して実験室で再現することだ。
実験室で作り出せるどんな種類の細胞も、精子や卵子ほど科学的、社会的な衝撃が大きいものはない。もし科学者が精子や卵子を作り出すことができれば、世代間をつなぐリンクが入っている秘密の部屋に踏み込むことができるだろう。「これ以上に面白いことがあるでしょうか。まったくの驚きです」と言うのは、B.D.の細胞を使った実験をした科学者のレネー・レイヨ・ペラ(現・モンタナ州立大学研究開発担当担当副学長)だ。「どのように生命が地球に誕生したのか、人類はどう始まったのかを研究している人は数多くいます。しかし、どの研究も、どのように精子と卵子が一緒になって人間が生まれるのか、といった仕組みを解明できてはいません。それでもほとんどの人間の手は2本、足は2本です。驚くほど正確です」。
「人工配偶子」を作る研究は進歩の速度を上げている。日本では、ネズミの尻尾の細胞を用いて作られた卵子からネズミを生みだすことに成功した。また中国の科学者は、ネズミの精子を作るのに必要な分子シグナルの正確な流れを解明したと発表した。しかし現在のところ、幹細胞を成熟させ、ヒトの機能的な精子や卵子を作るための正確な生化学的な処方箋は、人間の力の及ぶところにない。つまり、ヒトの皮膚細胞から本物のヒト生殖細胞に作り変えられたことは未だないのだ。しかし、多くの科学者は時間の問題だと信じており、あと1年か2年で正しい処方箋が見つかるかもしれないと思っている。近年、この領域の研究が大きく進歩したことは「完全に明白で、息を飲むほどです」と語るのは、ハーバード大学医学部の学部長に就任した幹細胞研究が専門の生物学者、ジョージ・デイリー教授である。
生殖の基本要素のコントロール方法が解明されるにつれ、研究は投資家、法律家、生命倫理学者、そして体外受精の専門家などの衆目を集めつつある。人工配偶子の作製は、1977年に体外受精が最初に試験されて以来、最大の飛躍的前進になるかもしれないと考える人もいる。がん、事故、年齢、遺伝子などの理由で子供ができない人は数百万人もいる。「命さえあればだれでも持っている皮膚さえあれば、精子ができるのです」とB.D.は言う。
しかしこのテクノロジーは、結果的に社会を分裂させる危険性もある。女性は年齢に関係なく子供が持てるようになるかもしれないのだ。皮膚さえあれば、さっと若い卵子ができあがる。もし精子と卵子を実験室で作れるのなら、受精させた胚を何十個も作り、病気の危険性の少ない胚や、高いIQが得られる可能性が一番高い胚を選んだらどうだろうか。スタンフォード大学法学部で教鞭をとり、生命倫理において米国で最も影響力のある思想家のひとり、ヘンリー・グリーリー教授は、そうなる可能性が高いと考えている。2016年、グリーリー教授は著書『セックスの終わり(原題“The End of Sex”)』の中で、2040年にはカップルの半数は自然な生殖をやめ、皮膚や血液を元にした人工的な生殖に頼るようになるだろう、と予言している。
ほかにも、実験室で作った配偶子を遺伝子操作して病気の危険性を減らすことは、単なる絵空事ではなく、実現可能なことだと言う人がいる。さらに、それ以上に危険をはらんだ事態も起こりかけている。科学者は、たとえば男性の皮膚細胞から卵子を、女性の皮膚細胞から精子を作ることも可能になると考えている。ただし女性にはY染色体がないことから、男性が卵子を作るよりも難しいだろう。理論的には「性転換」と呼ばれるこのプロセスにより、同性の二人での生殖が可能になる。ここで、グリーリー教授が「ユニ親( uni-parent:自分の精子、自分の卵子)から、自分のユニベビー(unibaby)を作る」と呼んでいることが起こり得る。最近の医学進歩についてのニュースには、このような奇妙な可能性を扱ったものが溢れている。B.D.が聞いたラジオ番組「すべてを考慮すれば(All Things Considered)」のエピソードには、ジョージ・クルーニーの髪の毛を1本盗み、秘密の“ハリウッド精子銀行”を作ることは可能だろうか、と問う場面があった。
前出のモンタナ州立大学のレイヨ・ペラ副学長は、同性の二人での生殖が可能になるという推測は誤った印象を与えるものであり、有害だと考えている。「私は、たとえば試験管内での配偶子形成が恐ろしいことだとは思いません。逆に、このような質問で傷ついている人を知っています」。またレイヨ・ペラ副学長は、人々が、本来必要ないのに間違って試験管ベビーを作ってしまう可能性について心配している。「そのような質問は不妊症の人々を深く悲しませると思います。なぜなら、自然な方法で生殖ができる人々は、そうするわけです。私はナイーブかもしれませんが、健康な子供を持つ方法とは、今でも二人の人間がいっしょになって、二人でワインを開けて夕食を食べることだと考えています」。
細胞の再プログラミング
レイヨ・ペラ副学長は、1990年代の博士研究員時代、男性が作りだす精子の数をゼロにしてしまう遺伝子変異を特定する研究の手助けをした。DAZと呼ばれる無精子遺伝子が特に興味深かったのは、霊長類にしか存在しない点だった。つまり、人間には5本目の指(親指)と知性があるだけでなく、生殖の詳細部分についても独特なのである。
科学者にとって問題なのは、このような詳細の多くはまだ明らかになっていないことだ。科学者が実験室で研究目的のために胚を生きた状態に保存しておけるのは14日間だけである。その後に、数少ない成長中の胚(およそ40個)が、生殖隆起と呼ばれる、将来の卵巣または睾丸への神秘的な変化をする。この変化の筋道は今も完全に分かっているわけではないが、配偶子はここで新しい生命になる力を得るのだ。
レイヨ・ペラ副学長はこのプロセスがどうなっているのか分析してみたいという個人的な関心を持っている。彼女自身、キャリアの初期に卵巣がん、それも稀な種類である顆粒膜細胞腫と診断され、そのせいで不妊症になった。「人は、『養子をもらうことは簡単よ』『これしたり、あれしたりするのは簡単よ』と言いました。それで、私は不妊症のヘルスケアには、ある種の『がさつさ』があると感じるようになりました」。夫妻は最終的にグアテマラから養子をもらう決断をした。2006年、レイヨ・ペラ副学長はスペイン語(ガアテマラの公用語)を習い …
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