病気単位から患者単位へ、
新薬開発を根本から変える
「AI創薬」の真価
新薬開発のプロセスを人工知能(AI)で一新しようと試みるスタートアップが続々と登場している。製薬大手も機械学習の導入を進めており、膨大な時間とコストがかかっていた創薬プロセスは今後5年で激変すると話す研究者もいる。 by Will Douglas Heaven2023.04.18
進行が速い血液がんを患う82歳のポールは、6回にわたる化学療法でもがん細胞を死滅させることができず、もはや打つ手がないように思われた。それまで長く苦しい治療過程に入るたびに、一般的な抗がん剤が順番に試されてきた。担当医たちは効果がある薬が見つかることを願っていたが、候補はリストから一つ一つ消えていった。普通の抗がん剤では効き目がなかったのだ。
主治医は駄目でもともとの気持ちで、ポールをある臨床試験に参加させた。この試験は、ポールが暮らすオーストリアのウィーン医科大学が企画したもので、英国のエクセンティア(Exscientia)が開発した新しいマッチング技術をテストしていた。このテクノロジーは、人によって微妙に異なる生物学的差異を考慮に入れて、個々の患者が必要とする薬を正確に割り出す、いわゆる「適確医療(Precision Medicine=精密医療とも呼ばれる)」を実現しようというわけだ。
研究者たちは、ポール(臨床試験では身元が伏せられていたため、本名は不明)から組織の小さなサンプルを採取した。そして、正常な細胞とがん細胞の両方を含むこのサンプルを100個以上の小片に分割し、それぞれの小片をさまざまな薬剤カクテルにさらした。その後、自動制御で動くロボットと、コンピューターによる画像処理(細胞内の小さな変化を識別するように訓練された機械学習モデル)を利用して、何が起こるか観察した。
実質的に研究者たちは、ポールの治療に当たった医師たちがそれまでにしてきたことと同じことをしていた。さまざまな薬を試し、効果があるものを確認する作業だ。しかし、研究者たちは、何カ月もかかる化学療法を患者に何度も受けてもらうのではなく、何十種類もの治療法を同時にテストした。
この手法により、研究チームは適切な薬を求めて徹底的に調査することができた。中には、ポールのがん細胞を殺さない薬もあれば、健康な細胞を傷つけるものもあった。もっとも効果を示した薬は、ポールの体が弱りすぎていたため使えなかった。そのため、マッチングで次点となった薬が投与された。それは、製薬大手のジョンソン・エンド・ジョンソンが販売している抗がん剤で、ポールの担当医たちが試したことのないものだった。過去の臨床試験で、ポールが患う種類のがんには効果がないとされていたためだ。
それが効いた。2年後、ポールは完全に寛解し、がんは消滅した。この手法はがん治療に大きな変化をもたらすと、エクセンティア(Exscientia)のアンドリュー・ホプキンス最高経営責任者(CEO)は言う。「臨床で薬をテストするための私たちのテクノロジーを、実際の患者にも使うことができるのです」。
適切な薬を選ぶことは、エクセンティアが解決したい問題の半分に過ぎない。目指しているのは、新薬開発パイプライン全体を徹底的に見直すことだ。エクセンティアは、患者と既存の薬のペアリングに加え、新薬の設計にも機械学習を利用している。それにより、マッチする薬を探す際に、選択肢となる薬がさらに増える可能性がある。
AIの助けを借りて設計された初めての薬は現在、臨床試験の最中にある。臨床試験は、その治療法が安全であるか、そして本当に効果があるか確認するため、人間のボランティアに対して行われる厳しいテストであり、それをクリアして初めて規制当局から臨床における本格的な使用に向けた承認が得られる。2021年以降、エクセンティアが開発した(または他の製薬会社と共同開発した)2つの薬が、このプロセスに入っている。エクセンティアは、さらに2つの薬の臨床試験を始めるために準備を進めている。
「従来の手法を使っていたら、これほど速く会社の規模を拡張できていなかったでしょう」と、ホプキンスCEOは言う。
エクセンティアだけではない。製薬業界には今、機械学習の活用を模索しているスタートアップが数百社あると、生物工学と生命科学分野の企業に投資するベンチャー・キャピタル、エア・ストリート・キャピタル(Air Street Capital)のネイサン・ビネイシュ創業者は言う。「初期段階の兆候は刺激的で、大きな資金を引き付けるのに十分なものでした」 。
現在、新薬の開発には、平均して10年以上の時間と数十億ドルの費用がかかる。そこで、AIを活用してより速く、より低価格で新薬を開発できるようにすることが目指されている。機械学習モデルは、候補となる薬が体の中でどのように作用するか予測し、見込みのない候補を排除することにより、実験室における骨の折れる作業を減らすことができる。
そして、新薬に対する需要は常にあると、カリフォルニア州に本社を置く製薬会社ヴァーセオン(Verseon)のアディティオ・プラカシュCEOは言う。「治療できない、あるいは非常に多くの副作用を伴う治療しかできない病気が、まだあまりに多く残っています」。
現在、世界中に新たな研究所が作られている。2022年はエクセンティアが、ウィーンに新しい研究センターを開設した。2月には香港の創薬企業インシリコ・メディシン(Insilico Medicine)が、アブダビに大規模な研究所を新設した。全体を見ると、AIの助けを借りて開発されたおよそ20種類(今も増え続けている)の薬が、現在臨床試験中であるか、臨床試験に入ろうとしている。
このような活動や投資が増えているのは、製薬業界で自動化が進んだことで十分な量の化学的・生物学的データが得られるようになり、そのデータを使って優れた機械学習モデルを訓練できるようになったからだと、ワシントン州バンクーバーに拠点を置く企業アブサイ(Absci)の創業者であるショーン・マクレーンCEOは説明する。アブサイはAIを使って、何十億種類もの新薬設計の候補を調査している。「今こそ、その時です。今後5年で、この業界は大きく変わるでしょう」 。
だが、AIを利用した新薬開発はまだ始まったばかりだ。証明できないことを主張するAI企業がたくさん存在すると、プラカシュCEOは言う。「もし、どの薬物分子が腸を通り抜けることができるとか、肝臓で分解されないとか、そういったことを完璧に予測できると言う人がいるなら、その人はおそらく火星に売れる土地も持っているでしょうね」。
それに、このテクノロジーは万能ではない。研究室での細胞や組織を使った実験や、人間での治験という、新薬開発プロセスの中で最も時間とコストがかかる部分を完全に省くことはできない。「時間の大幅な節約になっています。手作業に頼っていた多くの作業を、すでに代行してくれています」と、パイオニアリング・メディシンズ(Pioneering Medicines)で最高科学責任者(CSO)を務めるルイサ・サルター-シドは言う。パイオニアリング・メディシンズは、マサチューセッツ州ケンブリッジに拠点を置くスタートアップ・インキュベーターであるフラッグシップ・パイオニアリング(Flagship Pioneering)の傘下にある企業だ。「ですが、最終的には研究室で検証する必要があります」。 それでも、AIはすでに新薬開発のやり方を変えつつある。AIの助けを借りて設計された最初の薬が発売されるまでには、まだ数年かかるかもしれない。しかし、このテクノロジーは、新薬設計の初期段階から最後の承認プロセスまで、全体にわたって製薬業界を改革することになる。
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