インフルエンサーと科学者、
些細な行き違いが生んだ
大麻悪阻症候群研究の顛末
マリファナ常用者の中には、大麻の過剰摂取によって嘔吐を繰り返してしまう「カンナビノイド悪阻症候群」に苦しむ人がいる。ある科学者が、この病の原因となる遺伝子を探求し始めた。大麻インフルエンサーに協力してもらおうと考えたが、些細な行き違いから研究は暗礁に乗り上げそうになっている。 by Amanda Chicago Lewis2023.01.12
アリス・ムーンは嘔吐を繰り返していた。
大麻インフルエンサーとして名をあげていたムーンは、2018年にマリブの自宅で大麻入りの夕飯をとった後、2週間以上にわたり絶え間なく吐き続けた。食べ物も水も喉を通らず、救急外来で何度も点滴を受け、一時は庭で気を失うほど衰弱した。そうして、ようやく大麻が原因で病気になったと納得したのだった。
思いがけない展開だった。現在33歳のムーンは、2016年11月のカリフォルニア州の大麻合法化に関する住民投票直後に熱狂した、豪邸での大麻パーティーや豪華な交流会の常連だった。派手なドレスに身を包み、ネオンカラーのアイメイクでカウンターに寄りかかりながら、どの大麻グミが一番効くかを説明する医療用マリファナ薬局の店員だったムーンは、マリファナ入りのスナックやドリンクのレビューを書いたり、コーチェラ・音楽フェスに大麻を持ち込めるようにパイプが隠された花かんむりをエッツィ(Etsy)で販売したりするようになっていた。
「ムーンは大麻インフルエンサーになろうと必死でした」と、大麻会社の元同僚は言う。「かわいい金髪の女の子が食用大麻を食べる。そういう設定でした」。2016年には、ムーンのインスタグラムのフォロワーは1万4000人以上になっていた。
ムーンの嘔吐が始まったのは、その後のことだ。最初は数カ月に一度だったが、そのうち飛行機に乗るたびに吐くようになり、最終的に嘔吐は毎日続いた。2018年初め、ムーンの母親が手配した胃腸科専門医を受診したが、ムーンの消化器疾患はカンナビノイド悪阻症候群(CHS:Cannabinoid Hyperemesis Syndrome)という希少疾患で、恐ろしいことに、ムーンが吸った大量の大麻によるものかもしれないという診断を下された。
「CHSのことは聞いたことがありましたが、まさか実在するとは思っていませんでした」と、ムーンは振り返る。大麻を使った治療法として最もよく知られているのが、化学療法による胃の不調を和らげることであるため、この現象は理解できないとムーンは思った。「マリファナは吐き気を抑える効果があるのに、なぜ吐き気や嘔吐を引き起こすのでしょうか?」
ムーンに診断が下された頃、医学的に確認されていたCHS患者はたった数百人で、CHSについてほとんど知られていなかった。医師は患者に、消去法でCHSだと告げていたのだ。CHSであることを示す決定的なバイオマーカーは存在せず、診断理由は身体症状だけだった。CHSを発症した患者は、大麻のヘビーユーザーで、数週間にわたり嘔吐を繰り返し、入院することもあった。また、患者は衝動的に熱いシャワーや風呂に入らなければという強迫観念に駆られるという。そうすることで吐き気を抑えられるからだ。ムーンが初めてCHSのことを聞いた時、理解できない症状だと思った。ムーンにとってCHSは、「Tide Podチャレンジ(カプセルに入った液体洗剤を食べるというチャレンジ)」のようなモラルパニックのように感じた。つまり、ムーンに恐怖を与えるでっちあげだと思ったのだ。
マリファナ常用者の世界では、みな同様の疑惑を抱いていた。連邦政府が大麻を非難し、大麻の医学的可能性を示す証拠を無視するのを数十年間見てきたため、多くのマリファナ常用者は科学界よりも自分の経験的知識を信用し、大麻が害をもたらすという考えに対し、反射的に抵抗している。大麻に関する科学的研究となると、誰を信用していいのかわからなくなるのだ。誰もが何か意図や販売商品を持っているように見える。大麻は広く使われているにもかかわらず、大麻に関する臨床研究はほとんどされていない。米国政府が資金を提供し承認している研究は、入手可能な証拠を歪め、疑いや混乱、陰謀論を煽り、マリファナが体に悪いという主張を支持する可能性がずっと高いのだ。
その結果、肯定的であれ否定的であれ、大麻とその身体や脳への影響について、多くの人が知っていることは、ただの言い伝え程度なものになっている。実際、大麻に関する科学的研究では、ほかの分野であまり言及されない歴史的文献を参照することが多い。2007年に「ケミストリー・アンド・バイオダイバーシティ(Chemistry and Biodiversity)」誌に掲載されたある論文では、古代エジプトのパピルスに、大麻と蜂蜜を用いて出産時に「子宮を冷やし、熱を取り除」いたことが書かれていると引用している。また、アッシリアの粘土板には「恐怖を与えるため、あるいは和らげるため」に大麻を使ったと書かれており、出エジプト記30章23節の翻訳には、神からモーゼに与えられた聖油の材料に大麻が入っていたかもしれないと書かれている。
この論文の著者は、神経科医で精神薬理学者のイーサン・ルッソ博士だ。「イーサンはほかの誰よりも大麻の研究経験が豊富です。数十年にわたり研究を続けています」と、マサチューセッツ総合病院の医師でハーバード大学医学大学院の講師であるピーター・グリンスプーン博士はいう。グリンスプーン博士は、ルッソ博士を「疾患と大麻の両方に関する幅広い知識を持つ、この分野のリーダー」と評する。
薄毛に眼鏡姿の70歳のルッソ博士が大麻に興味を持ったのは1990年代のことで、大麻を使えば多くの患者が楽になると気づいたからというのがその理由だ。ルッソ博士は、大麻と片頭痛に関する臨床試験を実施しようとしたが、大麻の治療効果を研究するほかの多くの悪意のない専門家同様、ルッソ博士は米国で政府の認可を得られなかった。そのため、ルッソ博士は合法的研究がしやすい英国のGWファーマシューティカルズ(GW Pharmaceuticals)に移り、最終的にムーンと衝突するようになる。
ムーンとルッソ博士は直接会ったことはないが、ルッソ博士のCHS研究の試みをめぐり、これまで数年にわたりネット上で激しい論争を繰り広げている。
ムーンは高校も卒業していない。一方でルッソ博士は、インスタグラムの使い方も分からない。このように、インフルエンサーと科学者の共通点はほとんどない。それでも、2人の対立がこれほど激しく展開されるとは驚きだった。詐欺や妨害行為、SNSでの罵り合い、科学的研究から数百人が手を引いた事件など、非難の声は多い。世界各地の救急医療センターに多くのCHS患者が運び込まれるようになったように、CHSをめぐる世間の議論は2人の不仲によって永遠に捻じ曲げられてしまったといっても過言ではないだろう。
英国のマリファナ業界を取材するジャーナリストである私は、ムーンとルッソ博士を数年前から知っている。両者とも、この論争に関するそれぞれの意見について、常に最新の情報を提供してくれる。この強烈な2人の争いは、既存の階級社会が崩れ、何を信じていいのか誰も分からないような現代の縮図のように見える。現代医学が発達したとはいえ、いまだに解明されていないことや治療不可能な病気は多い。ほとんどの病気や怪我について、確実に治る治療法が1つだけ存在するわけではなく、さまざまな治療法があり、その他の選択肢もある。たとえば、費用と利点、副作用と段階的改善、拒絶することによるライフスタイルの変化を比較検討できる。医療システムや私たちの身体に関する知識は、市場の要求、思い込みや伝統、富や人種、権力によって、すでに大きく捻じ曲げられている。健康と安全に関する正解を見つけることは、全く不可能ではないにせよ、きわめて困難に思えるかもしれない。
大麻研究は長い間、論争の的となってきた。1937年、米国医師会は、議会による大麻の取り締まりに反対し、次のように主張した。「大麻を医療目的で使用しても、依存の原因とはならず、いまだに依存は発生していないため、大麻の医療目的使用の禁止は何のメリットもありません」。米政府は、「リーファー・マッドネス」(1930年代の麻薬の怖さを訴える宣伝映画)の神話に屈し、実質的に大麻を違法としてしまった。ミシシッピ大学の政府研究者が、大麻がてんかんの発作を止める可能性を発見したブラジルの科学者や、緑内障を緩和する兆候を見つけたUCLAの研究者と接触していたにもかかわらず、1970年、大麻は規制物質法でスケジュールI薬物に分類されてしまい、医療用途では使えないものになってしまった。
大麻関連の法律が改正され、画期的な研究が資金を集め、その正当性が認められ始めた今、真実と科学に対する私たちの信頼は崩壊しつつある。ソーシャル・メディアには、フェイクニュースやワクチンの偽情報があふれ、ジョー・バイデン大統領がハリウッドの撮影所で不正に就任したと信じるQアノン(QAnon)信者もいる。共和民主両党は、共に健康に関する助言では誇張表現を控えるようになっている。グウィネス・パルトロウからアレックス・ジョーンズまで多くの有名人が、私たちの不安や恐怖に乗じて、毒素と闘うという怪しげな薬をばらまいている。
ホリスティック医療と西洋近代医学の間には緊張感が漂うが、体調がすぐれないときは、これも商売敵たちのただの的外れな戦いのように感じるだろう。病に苦しむ患者は、藁をもつかむ思いだ。ネット上の「自分で検証する(DYOR:Do Your Own Research)」という教えに従えば、裏付けに乏しい推奨治療法の掃きだめに簡単に落ちてしまう。インフルエンサーは、イベルメクチン(寄生虫駆除剤)や、幻覚剤、朝鮮人参などの強壮剤、エッセンシャル・オイルを薦めている。
だが、厳密に試験され、現在では一般的となっている薬剤でも、多くの場合、偶然から生まれていることも事実だ。立証されていないということは、これまで調べてこなかったか、適切な研究を実施するにはあまりにも困難か、費用がかかりすぎたということだろう。
というのも、たとえばモデルナの新型コロナワクチンの効果に関する詳細な査読付き科学情報は容易に入手できるが、大麻に関する信頼できる情報は依然として極めて見つけにくいからだ。マリファナは世界で最も一般的な違法薬物だが、大麻の医療用途について、人間を対象とした研究はあまり行われていない。州政府の認可薬局で入手できる大麻の種類は豊富だが、研究に使用できる合法的な大麻の種類は少ないと、大学の研究者たちは嘆いている。大麻が完全に合法化されたカナダですら、大麻ビジネス界の関心事は研究よりもマーケティングだ。大麻の製法は簡単に真似できるため、研究成果が競合他社にも活用されてしまう可能性が高いためだ。
つまり、米国人が科学的手法よりも健康法のカリスマによるインスタグラムのキラキラ投稿を信頼していることに大きな懸念や憤りがあるのと同時に、奇妙なことに大麻に関する情報は驚くほどにない。「SCIENCE IS REAL(科学は真実)」の看板を掲げる専門家も、国民の90%以上が真に薬用効果があると信じる大麻の臨床的価値ついてよく分かっていない。
カナダ最大の合法大麻企業キャノピー・グロース(Canopy Growth)の元調査部長ハンター・ランドによれば、医療用大麻やCHSのような病気に関する情報を探している患者は、「本当にひどい」状況と売り込みに直面するという。「さまざまな情報源から大量の情報を容易に入手することはできます」とランド元調査部長はいう。「問題は、正確な情報はどれか、誰に信頼を置くのかを決めなければならないことです」。
ムーンは消化器専門医から聞いたCHSの話を全く信じなかったが、常に嘔吐することには辟易していた。そこで、試しに3か月間大麻をやめてみることにした。だが、ムーンはまずマリブ・キャニオンで海を見下ろしながら、大麻を使った5品のコース料理「ハイ・フェッテ」を楽しめる春分ディナー・パーティに優雅に出かけたいと考えていた。2018年、そのディナー・パーティの後、ムーンは曲がりくねった道で巨大な新型SUVを必死に操り、60センチメートルの土の縁石に乗り上げひっくり返っていた。ムーンは、だれか一緒に乗って山を下りるまで案内してくれる人はいないかと、その様子を見ていた私の車まできて頼んだ。だれも手を挙げなかった。
1カ月後、ムーンはメールで近況を知らせてきた。
私はカンナビノイド悪阻症候群(CHS:Cannabinoid Hyperemesis Syndrome)と診断されました。(中略)その夜の夕食を最後に嘔吐が始まりました。とても後悔しています。その晩は吐いて過ごし、その後ほぼ3週間毎日、食べたり飲んだりすると、すべてを激しく吐いてしまいました。(中略)体重は48キロまで落ち、本当に怖くなりました。(中略)その後しばらく大麻を吸っていませんが、今でも私は大麻が好きですし、感謝もしています。カンナビノイド悪阻症候群は実在する病気です。無視すべきではありません。私はカンナビノイド悪阻症候群についてコミュニティを啓発したいと思っています。大麻業界に恐怖をふりまかないためにも、私はCHS患者の代弁者として完璧な存在だと思っています。私が経験した地獄のような状況を他の誰にも味わって欲しくありません。ただ、この疾患の存在と罹る可能性について知って欲しいだけなのです。xoxoxo
ムーンは、ネット上のCHS患者コミュニティですぐに有名になったが、それはかつての友人たちからの不信感や罵詈雑言に耐えなければならないことを意味した。「アリス(・ムーン)を見たとき、この病気の存在を証明する2番目の症例は一体どこにあるのかと思いました」と、ある大麻会社のCEOは私にいった。(実際のところ、CHSと診断された人は数百人存在する)。
ムーンが政府に協力して大麻を違法なままにしようとしていると非難するものもいた。大麻の過剰摂取で死亡した例はないが、CHSによる深刻な合併症で死亡した人は複数存在する。このことが疑惑を生じさせた。数十年前、ロナルド・レーガン政権下の麻薬問題担当長官は、違法大麻農場に有毒なパラコート系除草剤を散布させ、大麻の合法化を推進するハイ・タイムズ誌読者の間に恐怖が広がった。現在、多くのマリファナ常用者は、CHSは大麻栽培に使われる農薬の副作用で時々発生するが故意に誇張されていると、ブログや掲示板で理論を展開し、ムーンは反大麻プロパガンダのカモかサクラのどちらかだと主張した。
「大麻にマイナスな面があるなんて、誰も望んでいません。『科学的な根拠がないのだから、見つかるまで信じません』とみんな言います」とムーンは語る。
批判を受けムーンは意気消沈していたが、ソーシャル・メディアで患者仲間たちとつながることが慰めになった。患者たちの話を聞き、情報を交換し、より効果的な治療と多くの研究成果を得るためにどういった発信ができるかを考えた。
ムーンは、インターネットで、唐辛子から作られたカプサイシンのクリームを胃が位置する部分に塗ると、皮膚が熱くなるが、その熱で嘔吐が緩和 …
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