超大国として台頭する中国、
近代化を支えた科学者の葛藤
中国は今や、米国に並ぶ超大国として科学分野でも台頭しつつある。しかし、強力な祖国を築くために西洋の科学技術を求めた中国近代化の歴史は、屈辱と葛藤に満ちたものであった。 by Yangyang Cheng2021.11.23
2021年3月下旬のある日、中国共産党の機関紙「人民日報」が中国のソーシャルメディアに2枚の写真をシェアした。
1枚目の白黒写真は、1900年に起こった義和団事件の翌年、当時中国を統治していた清朝と11カ国との間で結ばれた「北京議定書」の調印時のもの。義和団事件は清王朝末期に起こった動乱である。義和団と呼ばれる農民の民兵が各国の公使館を包囲したのを受け、米国を含む8カ国の軍隊が北京に攻め入って占領した。一連の譲歩の中で清政府は、8つの占領国に対する賠償金として、歳入の約2倍に相当する4億5000万両(現在のドルで約100億ドル)を銀で支払うことに同意した。北京議定書は、中国が最も弱体化していた時代を痛感させるものとして中国人の心に刻み込まれている。
色鮮やかな2枚目の写真は、投稿前日にアラスカで開催された米中外交トップ会談の様子だ。バイデン政権下で初めて開かれた米中高官級協議だった。参加した高官らは互いに、相手政府の人権侵害や国際社会における好戦的態度を批判した。オープニング・セッションの終わりに、中国共産党の外交担当トップの楊潔篪(よう ・けつち)が米国側を叱責した。「もう十分長い間、中国国民は諸外国によるいじめに苦しんできました。我が国はもうこれ以上、諸外国から締め出され、発展を妨げられることに甘んじません」。
人民日報の投稿では、それに続く楊潔篪の言葉を引用している。「米国は強者の立場から中国にものを言う資格はありません」。この投稿は中国国民の心の琴線に触れ、約200万回の「いいね!」がつき、楊潔篪の言葉をプリントしたTシャツやステッカー、スマートフォン・カバーなどが中国で売り出された。楊潔篪の厳しい言葉で、中国の多くの人は復讐の喜びを味わっている。中国はついに、世界で最も強大な国に立ち向かい、対等な関係を要求できるほど強くなったのだ。
中国最後の統一王朝から現在の中華人民共和国に至るまで、何世代にもわたる政治家や知識人が強い中国を築き上げる方法を模索してきた。西洋から道具やアイデアを輸入する者もいれば、より良い教育を求めて中国を離れる者もいた。そのような人たちにも祖国は手招きを続けた。中国を離れた人たちは東洋と西洋の関係、伝統と新しさ、国家への忠誠と国際的な理想について深く考えた。彼らの功績と後悔の念が中国の発展への道を形成し、中国人全体のアイデンティティを作り出してきた。
私は、そうした人々から受け継がれてきた複雑な遺産の産物だ。私は中国中東部に位置する中規模都市の合肥市で育った。子どもの頃の合肥は、古代の戦場、ゴマのお菓子、そしていくつかの優れた大学で知られる地味な場所だった。私は生まれてからの19年間を合肥市で過ごし、2009年に物理学の博士号を取得するために米国に渡った。現在は米国で暮らし、仕事をしている。
生まれ育った国の発展を見ると、複雑な気持ちになる。中国人の大多数がより高い生活水準を享受しているのはうれしいことだ。しかしその一方で、中国が新たな大国としての地位を確立するために硬直化していることに懸念を覚える。経済成長や技術の進歩によって、政治的自由や社会の寛容さが増したわけではない。中国政府は独裁体制を強め、国民の間ではナショナリズムが高まっている。世界は現在、分断化が進んでいるようだ。
合肥市は現在、新しい研究センターや製造工場、テクノロジー系スタートアップが出現する新興都市になった。1世紀離れて誕生した合肥市が最も誇る2人の出身者にとって、科学とテクノロジーを備えた強力な故郷を築くことは生涯の願いだった。1人は、清朝末期に最も尊敬された政治家であり、もう1人は、中国初の2人のノーベル賞受賞者の1人である。北京議定書は、前者のキャリアの終わりを示し、後者のキャリアの基礎を築いた。私は2人の名前を耳にして育ち、2人の物語を何度も振り返ってきた。この2人は、中国の台頭を推進した力、地政学の圧力によって人生が圧迫される可能性、そして国家権力のために科学を利用することのリスクについて教えてくれる。
1823年、李鴻章(り こうしょう)は合肥の裕福な家庭に生まれた。当時合肥は農地に囲まれた小さな州都だった。父や兄と同様に、李鴻章は中国で何世紀も前から実施されていた官吏登用制度である科挙の試験で優秀な成績を収めた。180センチを超える長身と鋭い眼光を持った李鴻章は、場を支配し注目を集めた。農民の反乱を鎮圧することで頭角を現し、宮廷内での出世も早く、清朝の最高位の総督、商務大臣、そして事実上の外務大臣となった。
アヘン戦争(1840~1842年)で清が英仏軍に敗れた後、李鴻章とその盟友たちはさまざまな改革をした。彼らはこの改革を「洋務運動」と呼んだ。「自強運動 」としても知られている。その戦略を最もよくまとめているのが、学者の魏源(ぎ げん)が1844年に出版した『海国図志』である。この書物の中で魏源は、「夷の長技を師とし以て夷を制す(野蛮な異民族の侵略を寄せ付けないために、野蛮な異民族から高度な技術を学ぶ)」と述べた。
中国の知識階級の間には、世界を、文明化された栄光の地である「華」と、野蛮人が住む「夷」とに分ける華夷秩序の思想があった。中国南岸を砲撃したイギリス海軍の砲艦は、何世紀も前からあるこの思想を揺るがしたものの、打ち砕くことはできなかった。洋務運動の支持者は、中国の伝統が西洋のテクノロジーを実用化するための基盤であると主張した。歴史家のフィリップ・クーンが主張しているように、そうした論理は、テクノロジーが文化的に中立であり、政治体制から切り離せることも意味している。
伝統的な教育を受けた学者であり、戦場をくぐりぬけてきた将軍でもある李鴻章は、民間と軍事の両方の事業を推進した。中国初の鉄道を建設することを皇帝に嘆願し、中国初の民間蒸気船会社を設立した。また、中国初の近代海軍である北洋艦隊に多額の政府資金を投入した。1865年、李鴻章は当時の東アジア最大の兵器工場である江南機器製造総局の設立を指揮した。戦争用の高度な機械の製造に加えて、江南機器製造総局には教育と翻訳部門もあり、科学、工学、数学に関する西洋の教科書を多数翻訳し、中国で議論するための語彙を確立していた。
李鴻章はまた、中国初の海外教育プログラムを指揮し、1872年夏に10歳から16歳までの中国人少年団をサンフランシスコに派遣した。このプログラムは有望なスタートを切ったが、米国での中国人に対する人種差別や中国国内での保守的な妨害によって頓挫した。中国に帰国した生徒の中には、当局に拘束されて忠誠心を問われた者もいた。紆余曲折を経て9年後の1881年、米国で中国人排斥法(1882年)が可決される直前にこのプログラムは終了となった。
一方、隣国の日本は、西洋のテクノロジーだけでなく統治方法も取り入れ、封建社会から強大な軍事力を持つ近代工業国家へと変貌を遂げていた。中国のエリートは何世紀にもわたって日本を小さな劣国と見下していた。1894年に勃発した日清戦争は、表向きは朝鮮半島の領有権をめぐってであったが、真の目的はアジアで秀でた大国としての地位をめぐってのものであった。日本の勝利は決 …
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