DJのD・ナイスがインスタグラム上で開催するバーチャル・ダンスパーティに、連日のように数万人が参加している。「クラブ・クォランティーン(Club Quarantine:クラブ隔離)」という名の下にブランド化したお祭り騒ぎのこのライブストリーミング・イベントには、ミシェル・オバマ前大統領夫人や俳優のオプラ・ウィンフリー、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEO(最高経営責任者)など、ありとあらゆる著名人たちを惹き付けている。視聴者が15万人を超える日もあり、若者とセレブが同じ音楽を流しながら何時間も一緒に踊っている。
民主的で1つの巨大なコミュニティに皆が集まるという状況にはデジャヴを感じる。他人とパンの焼き方のアイデアを交換しあったり(グーグルで最も検索されている検索キーワード)、見知らぬ人と会話ができるチャットルーレット(Chatroulette)をグーグル・ハングアウトで再現したり、といった試みと感覚的には同じだ。誰もがばらばらに離れたまま一緒にいるという状況によって、ネット上の壁が崩れ去ろうとしているように感じる。
それは儚い夢のなのか? それとも本当に何かが変わろうとしているのだろうか? ネット上での我々の行動に変化があったとしても、それは驚きではない。新型コロナウイルスは、生活のあり方を大きく変えてしまった。家の中に隔離され、平時であれば人間的だとされるあらゆる行動——仕事帰りの一杯、ハグやキス、あるいは投票、さらには痒みを感じて顔を掻くといった行為までもが、突如として命取りになる可能性を持つようになった。だが予想外だったのは、憎しみに満ちた党派による分断や「荒らし」が一般化してしまった現代において、インターネットが再び魅力的な場所になったことだ。
まるで、自分の考えを発信したり、誰とでも繋がったりできることで無限の可能性や楽観的な気持ちになることができた、活気に満ちていた時代に時計の針を巻き戻したかのようだ。ネットへアクセスすることがコミュニティを見つけるための有意義な時間の使い方だった、1990年代後半から2000年代初め、まだソーシャルメディアもスマートフォンもなかった時代を思い起こさせる。
そこには、バーチャルな人間関係を築きたい、という人々の新しい意欲がある。ソーシャルメディアによって我々が不機嫌で、冷淡で、否定的になってしまう以前は、インターネット上で生まれる偶然の出会いの良さをいまよりも真剣に信じていた。そしていま、見知らぬ相手と気楽に交流すること(当然バーチャルだが)が、再びクールになった。人々は見知らぬ人たちとのビデオ通話に参加し、仕事帰りの一杯や読書クラブ、さらには深夜のナンパグループまで、あらゆる活動をしている。グーグル・スプレッドシートで創造性を共有しあったり、パンデミック(世界的な流行)の中で文通相手を探したり、より優しさを込めたメールを送るようになったりしている人たちもいる。
古くからの人間関係にも、再び注目が集まっている。年に1回、春にフェイスブックの友達を棚卸しして一斉に削除するようになる以前は、中学時代のクラスメートと連絡を定期的に取ったり、小学校の先生と再会したりすることに価値があった。そして再び、我々は遠く離れた昔の友人を気にかけるようになった。結局のところ、遠く離れた昔の友人と近くに住んでいる友人の間に、もはや大した違いはないのだ。人々はアナログにも回帰し始めている。郵便はがきを送ったり、家族にボイス・メールでメッセージを残したり、ちょっとした差し入れを贈ったりしている。
かつてのインターネットは、圧倒的な情報過多で手が付けられなくなるようになるまで、あらゆることが学べる場所だった。家から出られずにイライラや退屈を感じている人々は、インターネットで再び何かを学ぼうとし始めている。最高のサワーライ麦パンの作り方を共有したり、新しい言語を習得したりといった、役に立たないことから便利なスキルまで、あらゆることを学ぼうとしている。
ミレニアル世代(1980年代から2000年代初頭までに生まれた人)が大多数のユーザーを占めるアプリでさえも、より楽しく、フィルターの少ない世界になっている。フォトショップや人工知能(AI)を利用した修正機能によって、自分のデジタルな見た目に自惚れるようになる前の時代に戻ったかのようだ。この数年間でインスタグラムに浸透した、キラキラした日常を見せ合う雰囲気は崩れ去った。散らかったリビングルームで開催するバーチャル・ヨガ教室には、心地よい生々しさがある。2人の料理研究家、マーサ・スチュワートやアイナ・ガーテンは、おしゃれとは言い難いアングルで料理のアドバイス動画を撮影し、著名人でさえも、義理の母がうるさすぎて静かにするようたしなめる、という場面をさらけ出している。
もちろん、私の記憶がただの見当違いで、理想化された郷愁である可能性もある。非営利団体インターネット・ソサエティ(Internet Society)のアンドリュー・サリバンCEOは、初期のWeb上にもいまと同じように悪役はいたと話す。だが、「人々はいまよりも発言の仕方に気を遣っていました」。ダイアルアップ接続では掲示板を際限なくスクロールしていたら莫大な料金が掛かってしまうため、ネット上での時間の使い方に慎重にならざるを得なかったからだ。また、そうした使い方しかできなかったインターネットは、高い教育を受け、金と知識がある人にアクセスが限定されていたため、ネットの世界は遥かに小さなものだった。
こういった要素が、オンライン上での交流が少なくとも見かけ上はいまより平和だったことの要因になっていたのは確かだ。比較すると、現代のインターネットは圧倒的にうるさい場所になったように感じられる。ブラウザーやネット回線の高速化といったイノベーションによって、対話による意見の不一致などが生まれやすくなった一方、アクセシビリティは高まり、我々の生活における混乱に対する回復力は遥かに高いものになった。言い方を変えれば、インターネットの発展がなければ、社会距離戦略(Social distancing)を採っている現在の我々は、いまより遥かに孤立していたということだ。「インターネットのおかげで正常な感覚を維持し、お互いに助け合い、集まって話しができるのです」とサリバンCEOは話す。本質的に、インターネットは我々に人間で居続けるための手段を与えてくれているのだ。
現在の状況が終わりを迎えたとき、インターネットはより優しく、穏やかな場所になるのだろうか?
社会の変化とインターネットについて研究をしているカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のリア・リーヴルフ教授は、現在生まれているのはいままでにないようなコミュニティの感覚だという。「誰もが集まるのに物理的な移動が必要ではないというのが、いま、我々が目にしていることです」とリーヴルフ教授は話す。「集まることができるのは、物理的なインフラによってではなく、テクノロジーを通じて我々がしていることなのです」。
もしかしたら、パンデミックが変えたのはそこかもしれない。インターネット自体が変わったのではなく、我々とインターネットの関係性が変わったのだ。いまやインターネットは我々が世界と繋がっていることを感じるためのライフラインであり、バーチャルでの人間関係やコミュニティの価値を見直そうとしている。
次に何が起きるのかを予測することはできない、とサリバンCEOはいう。だが、この1カ月間のインターネットの状況は、未来のインターネットの可能性を示している。「ディストピア的な話は現実にはなりませんでした」とサリバンCEOは語る。「困難に直面した人類は、お互いに助け合っているのです」。
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- カーレン・ハオ [Karen Hao]米国版 AI担当記者
- MITテクノロジーレビューの人工知能(AI)担当記者。特に、AIの倫理と社会的影響、社会貢献活動への応用といった領域についてカバーしています。AIに関する最新のニュースと研究内容を厳選して紹介する米国版ニュースレター「アルゴリズム(Algorithm)」の執筆も担当。グーグルX(Google X)からスピンアウトしたスタートアップ企業でのアプリケーション・エンジニア、クオーツ(Quartz)での記者/データ・サイエンティストの経験を経て、MITテクノロジーレビューに入社しました。