スマホ操作でメンタル診断
うつ病の「謎」に迫る
米スタートアップ企業
米国国立精神衛生研究所(NIMH)の元所長を含む3人の医師が設立したスタートアップが、文字入力やスワイプ、タップと言ったスマホの日常的な操作からユーザーのメンタル・ヘルスに関する情報を得るためのスマホアプリを開発した。ユーザーの日常生活に支障をきたすことなく、長期間にわたる観察が可能になることで、うつ病の早期発見などに効果を発揮する可能性がある。 by Rachel Metz2018.11.07
精神疾患の患者数は、米国だけで約4500万人にのぼる。その上、これらの疾病の種類や治療方法は大きく異なる。だが、こういった患者のほとんどが共通して持っているものがある。スマホだ。
米国国立精神衛生研究所(NIMH)の元所長を含む3人の医師がカリフォルニア州パロアルトに設立したスタートアップ企業が、最も難治性の高い疾患(うつ病、統合失調症、双極性障害、心的外傷後ストレス障害、薬物乱用)の治療に、スマホが役立つことを証明しようとしている。
マインドストロング・ヘルス(Mindstrong Health)は、スマホアプリを用いて、人々のスマホの使い方から示される認知能力や心の健康の測定値を収集している。同社のアプリをスマホにインストールすると、患者が他のアプリを使用している際の文字入力やタップ、スクロールの仕方などを監視する。これらのデータは、暗号化されて、遠隔地で機械学習を用いて分析され、結果が患者と医療従事者に共有される。
評価テストには、いわゆる時間内の線引きテストなど、数十年間使われてきた神経心理学的な検査も含まれていた。
マインドストロングの調査によれば、スマホの日常的な細かな操作が、たとえばうつ病の再発などのメンタル・ヘルスに関して、驚くほど重要な手がかりを示しているという。同社によると、アプリで収集した詳細なデータに基づいて、症状が悪化する可能性があると警告を受け取った患者の担当医やケアマネージャーは、アプリを通して患者にメッセージを送って容態を確認できるという(患者もアプリを用いて医療関係者にメッセージを送れる)。
ここ数年、気分や不安を和らげるのに役立つゲームのようなアプリを使う療法から、スマホ動作の追跡や、声や話し方などによりうつ病の兆候を検知する試みに至るまで、さまざまな方法を無数の企業が提案している。だが、マインドストロングのアプローチは異なる。ユーザーがスマホで何をしたかではなく、スマホにどのように触れたかに注目して精神疾患の兆候を検出する。長期的には、こちらのアプローチの方が、問題を追跡するための正確性がずっと高まるだろう。マインドストロングの方法がうまくいけば、スマホが、広範囲に及ぶさまざまな慢性脳障害患者を支援するカギとなり、事前の診断も可能になるかもしれない。
電子指紋
マインドストロングの創業者であるポール・デイガム CEO(最高経営責任者)は、同社を設立する前に、ベイエリアにある2つの研究に投資して、スマホの使い方から認知能力(または認知障害)を体系的に測定する方法を探ろうとした。150人の被験者をクリニックに集め、標準的な神経認知評価テストを実施した。このテストは、精神疾患を持つ患者では低下する高水準脳機能であるエピソード記憶(起こったことをどのように覚えているか)や、実行機能(衝動を抑え、時間を管理し、タスクに集中する能力などのメンタル・スキル)を評価するためのものだ。
評価テストには、数十年間使われてきた神経心理学的な検査も含まれていた。たとえば、バラバラになった文字や数字を指定時間内に正しい順番に結びつける線引きテストなどだ。この方法により、さまざまなタスクの間を、被験者がどれだけうまく移行できるかを測定するのだ。脳障害によって注意力が散漫になった人は、うまくできない可能性がある。
テストの被験者は、スマホの画面の触り方(スワイプやタップ、文字入力など)を測定するアプリをインストールして帰宅した。そうすることで、普段の生活に支障をきたさずに、スマホの使い方の習性を記録できることをデイガムCEOは期待したのだ。1年後に、アプリが、バックグラウンドで収集したデータをリモート・サーバーに送信すると、被験者は次の神経認知検査に移った。
研究者たちは、測定した被験者たちのスマホの使い方の習性から多くのことがわかることを見い出した。「こうした習性には多くの兆候がありました。神経認知機能の測定値は、神経心理学者が評価の尺度として取り入れているものですが、振る舞いに含まれる兆候は、神経認知機能を測定したり、相関したり(実際には、相関するだけでなく予測も)することができました」と、デイガムCEOはいう。
たとえば、脳障害の共通の特徴である記憶障害は、連絡先リストをスクロールする速さに加え、文字入力速度や、誤入力の頻度(文字を削除する頻度など)などの項目に注目することで検出可能だ。マインドストロングは、スマホの使い方を見て、その特性を一般的な指標と組み合わせることで、被験者の基準ラインを最初に決定できる。デイガムCEOによれば、スマホのキーボードを使っているだけでも、たとえば句読点を文章に追加する際など、ユーザーの注意は常に、あるタスクから別のタスクへと切り替わっているという。
デイガムCEOは、この新しい方法を用いれば、長期間にわたって人間の認知能力や振る舞いを調べられると確信するに至った。こうしたことは、セラピストとの定期的な面会や、新しい薬物治療を1カ月間試しては医師に診察してもらうような従来の治療方法では不可能であった。脳障害の治療が行き詰まってしまう一因として、症状がある程度進行しないとその人が問題を抱えていると医師に分からないということがある。デイガムCEOは、マインドストロングが従来より早期に脳障害を発見し、24時間体制で監視できると考えている。
2016年、デイガムCEOはアルファベット(グーグル)の生命科学企業であるベリリ(Verily)を訪問し、精神科医トム・インセル博士がいるグループに、マインドストロングの取り組みについて説明した。インセル博士は、2015年にベリリに入社する以前は国立精神衛生研究所の所長を13年間務めていた。
ベリリは、うつ病や他の心の健康状態を知るためにスマホを使えないかと考えていた。しかし、インセル博士は当初、デイガムCEOの提案(実際のデータの提示はなく概念についてだった)を大したことないと思っていたという。「デイガムCEOの話を聞いても、ピンときませんでした」。
だが、打ち合わせを重ねるうちにインセル博士は、メンタル・ヘルス分野で今まで誰もなしえなかったことを、デイガムCEOが実現できるかもしれないと考えるようになった。デイガムCEOがスマホで集めた兆候が、人間の認知能力と強く相関することが判明したのだ。通常は、研究室で長期にわたる試験をしないとわからないような結果だ。さらにデイガムCEOは、何日にも、何週間にも、ついには何カ月にもわたって継続的にこういった兆候を収集し、人間の脳機能の連続的かつ客観的な監視を可能にした。「これは、糖尿病の世界で言う連続的血糖値測定器を持つようなものです」とインセル博士はいう。
マインドストロングの取り組みは実際にうまくいくはずだ。デイガムCEOによれば、数千人の人々がマインドストロングのアプリを使っており、同社は今や、5年分の臨床研究データを収集して技術を検証しているという。マインドストロングは、数多くの研究を続けており、2018年3月には複数のクリニックの患者や医師との協働も始めた。
患者側からすると、現在のマインドストロングのアプリでわかることは極めてわずかだ。スマホのスワイプやタップの仕方によって集められた5種類の兆候に基づいて毎日更新されるグラフが一つあるだけだ。これらの兆候のうち4つは、気分障害(例えば、目的に基づいた決定を下す能力)に密接に関連する測定値であり、残り1つは感情を測定する。臨床医とチャットをする機能もある。
うつ病というカテゴリーに、いったい何種類の異なる病気があるのかは分かっていないとインセル博士はいう。だがマインドストロングならば今後、患者のデータを使って解明できるかもしれない。
インセル博士によれば、今のところマインドストロングはうつ病や統合失調症、薬物乱用などの問題で再発の危険がある重症患者を中心に研究しているという。「要するに、治療のイノベーションを本当に必要としている、極めて重度な障害を持つ患者向けです。一方で、一生懸命健康管理をしても、あまり恩恵のない人もいます。ですから、もっとうまく機能する方法を見つけ出さなければなりません」とインセル博士は語る。患者の症状が下降線をたどっていると実際に予測するのは難しいが、デイガムCEOは、今後アプリの利用者が増加すれば、データに含まれるパターンを強固なものにできると考えている。
もちろん、考慮しなければならない難題はある。1つは、プライバシーだ。マインドストロングはユーザーのデータを保護していると主張しているが、アプリが対象としている多くの患者にとって、こういったデータを収集されるのは全く恐ろしいことだろう。たとえば、従業員の健康増進プログラムの一環として、企業が興味を示すかもしれない。しかし従業員は、自分たちのメンタル・ヘルスに関するデータが雇用主のそばにあることを快く思わないだろう。たとえ、どんなに適切に保護されていたとしてもだ。
発症前に問題を発見する
ミシガン大学では、精神疾患を持たないがうつ病や自殺の可能性が高い人に関して、マインドストロングの方法が有益かどうかを研究している。スリジャン・セン教授(精神医学および神経科学)が率いる研究は、1年目の医師の焦燥症状を全国規模で追跡している。医師になった1年目は、強烈なストレスや睡眠不足、うつ病の罹患率が高いことで知られている。
実験参加者は毎日の気分を記録し、フィットビット(Fitbit)の活動量計を身につけ、睡眠や行動、心拍数を記録する。また、2000人の参加者のうち約1500人に、スマホ上で動作するマインドストロングのキーボード・アプリを利用してもらい、入力方法に関するデータを収集し、1年間を通して認知能力がどう変化するかを解明しようとしている。
セン教授は、人間の記憶パターンや思考速度は、うつ状態になる前に微妙に変化すると考えている。だが、どれくらい遅れて発症するのか、あるいはどういった認知パターンからうつ病を予知できるかはわからないと語る。
インセル博士はまた、マインドストロングが、現在広く定義されている心の病気よりも正確な診断をくだせると考えている。たとえば、現時点では、大うつ病性障害(MDD)の診断を受けた2人の患者で共通するのは、数多くの症状のうちの一つだけかもしれない。どちらの患者も、うつ状態にあるかもしれないが、1人は四六時中眠気を感じているかもしれないし、もう1人は、ほとんど眠れていないかもしれない。うつ病というカテゴリーに、いったい何種類の異なる病気があるのかは分かっていないとインセル博士はいう。だがマインドストロングならば今後、患者のデータを使って解明できるかもしれない。同社は、こうした相違点をどのくらい多く知れば、治療により効果的のある薬を処方できるようになるか研究を進めているという。
インセル博士によれば、統合失調症患者が経験するとされる幻聴などに関する特定のデジタル・マーカー(標識)が存在するかどうかはまだ分かっておらず、現在は心的外傷後ストレス障害のような将来の問題を予測する方法について取り組んでいるという。だが、スマホがこういった事象を慎重に突き止めるためのカギとなると確信しており、「日常生活に馴染む形で実現したいと考えています」という。
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クレジット | Photographs by Jessica Chou |
翻訳者 |
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- レイチェル メッツ [Rachel Metz]米国版 モバイル担当上級編集者
- MIT Technology Reviewのモバイル担当上級編集者。幅広い範囲のスタートアップを取材する一方、支局のあるサンフランシスコ周辺で手に入るガジェットのレビュー記事も執筆しています。テックイノベーションに強い関心があり、次に起きる大きなことは何か、いつも探しています。2012年の初めにMIT Technology Reviewに加わる前はAP通信でテクノロジー担当の記者を5年務め、アップル、アマゾン、eBayなどの企業を担当して、レビュー記事を執筆していました。また、フリーランス記者として、New York Times向けにテクノロジーや犯罪記事を書いていたこともあります。カリフォルニア州パロアルト育ちで、ヒューレット・パッカードやグーグルが日常の光景の一部になっていましたが、2003年まで、テック企業の取材はまったく興味がありませんでした。転機は、偶然にパロアルト合同学区の無線LANネットワークに重大なセキュリテイ上の問題があるネタを掴んだことで訪れました。生徒の心理状態をフルネームで記載した取り扱い注意情報を、Wi-Fi経由で誰でも読み取れたのです。MIT Technology Reviewの仕事が忙しくないときは、ベイエリアでサイクリングしています。